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ホウキでお掃除する時には、無意識的にホウキに合わせた感覚や、筋肉や、からだの使い方をします。
包丁を使う時にも、包丁に合わせた感覚や、筋肉や、からだの使い方をします。それはノコギリやナタを使う時の感覚や、筋肉や、からだの使い方とは異なります。 ですから、多様な道具を使うことで、人は多様な感覚や、筋肉や、からだの使い方を学ぶことが出来ます。 これは子どもの遊びでも同じで、昔は、竹馬や、木登りや、コマ回しといった「多様なものと関わり、多様な道具を使う遊び」が、子どもの多様な感覚や、筋肉や、からだの使い方を育ててくれていたのです。 これは、簡単で便利な機械に依存した生活をしている現代の子ども達に昔の子どもの遊びを提示した時の反応で確認する事が出来ます。 また、そのような多様な感覚や、筋肉や、からだの使い方が出来ないと便利な機械もインフラもない状態での生活は出来なかったのです。 でも今の子どもの遊びにはそのような多様性がありません。ゲームの内容は色々とあっても、ゲームの世界とやり取りするインターフェイスは同じだからです。使っている道具が同じならば、感覚や、筋肉や、からだの使い方も基本的には同じです。 また、ゲーム以外のオモチャも変わってきました。 昔の子どもたちは、「オモチャ」として売られているものではなく、オモチャではないものを工夫してオモチャとして遊んでいました。 それは布であったり、使われなくなった食器や家財であったり、石や、木の実や、葉っぱや、土や泥や水のようなものでした。 そういうものは、子どものアイデアやイメージに合わせて、色々なものに変化してくれました。一枚の布が洋服になったり、マントになったり、部屋になったり、目隠しをする道具になったりしました。 ドングリも、ある時はご飯で、ある時は宝物で、ある時はコマや、ヤジロベイや、笛にもなりました。 私はそういう子どものアイデアやイメージに合わせて自在に姿を変えてくれるオモチャを「 やわらかいオモチャ」と呼んでいます。 そして、そのような「やわらかいオモチャ」で遊んでいる時、子どもは自分の世界を広げ、自分らしさを育てることが出来ます。子どもの心もからだも緩んで行きます。無理矢理相手に合わせる必要がないからです。 そして、「やわらかいオモチャ」で遊んでいる時、子どもは自分の想像を実現するために様々に考え、工夫し、努力します。 でも、おもちゃ屋さんで「オモチャ」として売られているものの多くは「遊び方」が決まっています。 リカちゃんは「リカちゃん」のままです。シュタイナー教育でよく使われているような目鼻がはっきりとしない「バルドルフ人形」なら、赤ちゃんになったり、お姉さんになったり自在に役を変えることが出来ますが、リカちゃんは「リカちゃん」としての個性が決められてしまっています。だから別の役が必要な時には別のお人形を買う必要があります。 トーマスの電車も、○○レンジャーの刀でも同じです。「他のもの」になってくれないのです。 だから、子どもの方がそのオモチャに合わせて遊ぶしかありません。 また、そういうキャラクターオモチャが好きな子は、そのオモチャに合わせて遊ぶことが好きです。だから欲しがるのですから。そして、オモチャに依存した遊びしか出来なくなっていきます。 私はそういう、子どもが合わせなければ遊べない融通性がないオモチャを「固いオモチャ」と呼んでいます。 そのような固いオモチャで遊ぶ時、子どもはオモチャに合わせなければならないため、自分らしさを失い、心とからだの中に緊張が生じます。 オモチャ作家やオモチャメーカーが「こんなふうに遊んでもらいたい」という想いをオモチャに込めた時点で、オモチャは、重く、固くなるのです。 そして、子どもではなくオモチャやオモチャ作家が遊びの主人公になってしまうのです。 そして、一枚の布や、木の実や、葉っぱはその自由を失います。それは子どもが自由を失うことの現れでもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.11.29 07:56:39
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