雨の日にダンボールの中で哭いている子猫や子犬 それを見て通り過ぎる人 可哀想にとつぶやきながら行く人 立ち止まり、「お前達、捨てられたの?可哀想にね~」と言いながらしばらくの間傘をさしかける人 駆け寄り、抱きしめて泣き出す人 何か食べ物がないかとカバンの中を探す人、食べ物をあげる人 ダンボールごと抱き上げ、家まで連れて帰る人 人の反応はさまざまであろう その中で「可哀想」と感じ、立ち止まり、その場から離れられない人の場合 その人の心の中では、どのような動きがあるのだろうか?想像してみる こんなに可愛いのにどうして捨てたのだろう?可哀想に、このままでは死んでしまうかもしれない 飼い主が悪いんだ 飼い主がきちんと避妊してやらなかったからだ 捨てるくらいなら飼わなければいいのに 誰か貰ってくれる人をを探してやれば良いのに無責任だなどなど 犬猫への同情と捨て主への怒りが沸騰していることだろう これらの犬猫は「雨の降る中、ダンボールの中にいる」という状態ただそれだけの事象なのに この事象に人は何らかの感情や想いを抱く場合が多々ある このような状態を「同一化」と呼ぶ 犬や猫に対して、まるで自分であるかのように感じ あるいは、自分がその猫や犬だったらどう感じるだろうと想像してみる 「可哀想」と感じた瞬間に犬猫=自分自身という図式の中にいる そうすると、捨てられた自分だから足が止まり、放っておけなくなる 抱き締め、家に連れて帰り、世話をしないではいれらなくなる 世話をしてもらいたかったのに、してもらえなかった可哀想な自分を重ねて見ているだから、 自分がして欲しいように世話をする 尻尾でも振り、なついてくればもう可愛くて、可愛くて仕方なくなる しかし、自分の思うようにならなかったら、逆に憎らしくなり、果ては虐待まで至る可能性もある これらは動物でありながら、その人の心の中では動物とは考えていない そこに見いだしているのは自分自身である 見捨てられ、寂しいよ、悲しいよ、抱っこしてよとワンワン泣いているかつての自分であり 捨て主に大対しての怒りは、過去の世話してくれなかった対象への怒りである Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/