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長押 綴

長押 綴

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2012.01.23
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カテゴリ:
「信じる」対象にすることで、度々心の安寧をはかること。
昔だけじゃなくて今も、神様に対してやら忠義相手やらに対しての信心や尽くすことは心の安寧の為にみんな行っているのではないかなあ。

キャラクターや神様やアイドルなど、実際に接せない相手。
家族とか実際に接しすぎている相手。
あるいは、その折衷。
盲目的というか、思考停止をできる、心のふるさとがあるのが大事なのかな。

カントで言うところの「なぜ」→「なぜならば」の、追及無限ループをある部分でそっと抑えてくれる、ある部分で「公理」を与えてくれる人が欲しいという気持ちを、信仰・忠義において抱く人が多いのかも。

そういう相手が身近にいる場合。
例えば中世の騎士とか、現代の親分子分関係とか。
彼らは似たように尽くしたり、相手の為に頑張るそれを始める理由がそれぞれ違ってても、「続ける」原動力は、結構重なる所もある(特に度量の大きさ系)。それがまた面白いと思う。

そして、三次元で言うならば宗教とか、あるいは会社や上司に尽くしている場合とか、または恋心や家族への尽くしとか。誰かの為なら頑張れるというのは、きっと自分の為だと「もういいや」と諦めてしまうことだって平気だけれど、相手の為だと「諦め所」は無限近で、そして無限遠でもある。その未知こそが、相手を救うような形でもって、信じて尽くしている自分をも救ってくれるのではないかと思う。

そして、尽くせる相手が居る、そんな相手が見付かっている、私は誰かの為に頑張れている。これらの意識こそが自尊心とか自分が居ていいんだと言う気持ちに繋がっているようにも思う。

誰かの為というのは非常に美しい言葉。
そして、現実に見える存在ならば幻滅してしまうこともありえるけど、相手が神様ならばそういうことはない。
だからこそ信仰というものが、これまで人を「「神自身が」信じさせるに足る存在で在る」ことによって救って来たんだろうな。

この美しい「信じる」という行為だけど…

この中で最も大きな問題となるのは、きっと「信仰相手がきらうもの」だと思う。

それを自分があまり嫌いではなかったら、流されるのか。
好きでさえあったら、好きである自分を否定するのか。
自分がそれを元々嫌いであったら、ますます調子に乗るのか。

どれをとっても少し怖い気がする。

そういう臆病者には、多分「何者をも嫌わない」「余程の罪ならうーん…となるけれど、大体の失敗は成長を「待って」くれる」信仰先があれば、その態度が非常に怖くないものだと感じ、安心して信仰することができるのかもしれない。
ただし、もしもその相手がそうでなくなったらと考えると、そしてその対象に自分自身が含まれるのではと考えると、歩くことも恐ろしくなりそう。動くことで更に「相手に嫌われる行動」をとることを恐れるから。
信仰とは心の支えだし、その為に他の全てを置き去りにしても大丈夫だと覚悟を決めれば大抵のものは乗り切れるけど、それは同時に非常に大きな弱点ができたということでもあるんだろうな。

だからこそ、何か信じたい相手が出来たとしても、自分の身を崩し過ぎない為にはバランスが必要だと思う。
心の支えにするのはいいけれど、生き方は色々な所からチョイスしておいたほうがいいと思う。

とはいっても、信仰心のためとはいえ肉を離れられないよー><と古の哲学者が色々言っているように、理想の相手の為に生き方を全て捧げることというのは賢人ですら難しいから、そんなこと無理かもしれんけど…orz
この「肉」は「衝動」のことをあらわしているわけだし、「信仰心」「肉」以外に、他に大事にする存在がいてもいいのではないかな。

バックグラウンドやら、気にする相手は、多いとそれだけ自己矛盾が発生するリスクも高まるけど、例えば何か未知のものがきたときも「あれと似ている」と思うことで、少し落ち着いて対処できる可能性も高いんじゃなかろうか。

信じる心はとても大事なものだけど、それの為に何かを犠牲にする気概だけでなく、自分自身を「信じるに値する相手」にすることも大事だと思う。

まあ私は出来ていない訳ですが…

教主のような人々って、相手を利用する人にもなりうるけど…
相手に夢を見させ、そして努力もさせているからこそ、彼らは凄いんだとも思う。
だからこそ、舞台裏はあってもいい。絶対に見せてはいけないけど。
何故なら、裏があるからこそ化けの皮がはがれるリスクもあるけれど、
裏があるからこそぶれずに居られることもある(つまり闇落ちなどの危険性は無い)から。
宗教もの二次元を例に挙げるなら、フォーチュンクエストの「大魔術教団の村」とか、殺戮の地平の「理想都市光」とか。
「たとえ、偽りの宗教でも信じたままでいたかった」という人が少なからず居る(特に後者)ということは、利用されたがっているというより、相互利用の形が崩されてしまった感じなのかなあと思う。

偽りを信じられるのが怖い時、騙し続けられる強さも賢さも度量もない時、ある程度近くなったら等身大アタックをかます人が居ても、等身大の人間を愛せる人なんていうのは多分余程近くないと無理だろうな。だから離れる人は離れる人と思って、そうしてその分誰かしら何かしらに依存したとしても…これも危ういよなあ…その誰かに嫌われたららんま1/2の「嫌わないでください」みたいな気持ちになっちゃいそうな。

むずい。


ps:
「尊敬」から、「対等になりたい」というのもいいな、と思う。
大事な相手に認められる為だとか、大事な相手を支えられる為だとか、同じ高さで物を見る為だったりとか。
片方は対等になりたいけど、もう片方は忠義関係に拘ってしまっているというありがちなアレも良い。
大体は忠臣側が拘っているけれど、まれに殿側が拘っているというのも痛可愛い。
二次元と歴史の教科書ぐらいでしか知らんけど。

……その形が、時代や、相手に合ってなければ、あってもしょうがないんだろうけど。

自分に合った形が見付かるといいんだろうな。

最終更新日 2015.01.26 00:52:07





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最終更新日  2018.02.23 15:45:28
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