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長押 綴

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2012.02.05
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 まず、記しておきたいことがあります。
私はこの本の感想を書くと言うよりは、私的な、非常に卑近な感情の説明の為の引用に留めるつもりです。

 では、この本を読んで、自分と照らし合わせ感じたことを中心に述べたいと思います。

 前提として、私は、友人の「aに会いたい」と思うことによって辛いことや苦しいことを乗り越えています。
生きる為にはモチベーションを持たねばいけないけれど、その源を探すのが難しいのです。
 例えばゲームをやるために頑張れば、任務が終わった後のご褒美を長く味わってしまいそこから抜け出せなくなる。
 例えばa以外の人と会うためと考えると、ほぼ確実に失望してきた経験が頭をよぎります。
 つまりは、堕落しない為、失望しない為、aという存在を利用しているわけですね。

 そんなことを父にちょろっと漏らしたら、「夜と霧」という本を薦められました。
アウシュビッツ、その支所における被収容者、そして医者である著者の体験記です。

 「生きる為には何かしらの目的がなければいけない」
という項がその中にありました。
 著者は精神のケアも度々収容者仲間に対し行うことがあったのですが、
そんな日々の中で、ある自殺志願者二名に対し、それぞれに「家族のため」「仕事のため」に、生きて戻ってやるという気持ちを思い起こさせたそうです。
「家族が、仕事が、世界は私を待っている」
 自分を待つ人への想いを断ち切ることは非常に困難でしょう。
 自分が待つ人に生きていて欲しいと思う気持ちが強ければ強いほど、すてられなくなるのです。


 この生きる為のあがきは、とても「良い話」です。そして良い思考停止手段です。


 けれど、現実は思考停止の更に先を見ることも要求します。
上の対となる、
「世界は私を待っていない」です。

 より厳密に言うならば、「私を待つ人はそこにいなかった」「私の期待する人はそこにいなかった」になります。

 これはきっと、どんな絶望よりも深い、というかどうしようもないものだと思います。
絶望を奮い起こした源、そのものが自分を裏切るのですから。


 では私の場合を振り返って記してみたいと思います。
 私が何より恐れるのは、あれだけ会いたいと思っていた「a」が、変わってしまっていることです。
いえ、時によっては変わってしまっているというより、私の思い描く理想のaでないことに失望するという勝手なことすらしています。
 未来に夢を見ることを恐れてしまっては、過去を生かすことぐらいでしか生きられなくなるのです。
過去を生かす。つまり、「aによって育つことのできた自分」「aに迷惑をかけた償い」とかそういった形のものを生かすということになります。これはaの為というよりは、他のあらゆる多方面に対して向けられます。
 それはそれで非常に喜ばしいことではあります。自分の成長を実感することも出来ます。けれどそれには、「暫定的な終わり」すら明記されません。
 マラソンなどをやっている時に、あそこの角まで頑張ろうと思っていると走り切りやすい、ということがあります。階段の踊り場のようなもので、気休めではあるものの、そこに行けば休めると思えば意外と人は頑張れます。「これが終われば家に帰れる」と補修中の学生やブラック会社の社員の人々が思うのと似ているような気がします(会社については私の想像ですが)

だから、私はもしかしたら変わってしまうかもしれないという恐れ、それに伴う若干の覚悟を抱きつつも、未来のa、私の理想の必要条件を絶対的に満たすa、に「会う」という夢の為に生きるしかできないのです。


「何故生きるのかを知っている人間は、(大抵は)どのように生きることもできる」
…こんなことが、本著で述べられていたように、何故の終末、思考停止できる場所、とにかく休める場所、布団の中のように居心地の良い場所…が、カントの「何故から生まれる何故」を断ち切れるものだと思います。

ある物語からの引用ですが、自分の心臓を、大事な相手に託す主人公の話がありました。
死にたくない、その人なら守ってくれるという想いも、その大事な相手が死んだらその人と一緒に道連れになる覚悟も秘めて。

私の覚悟はそこまでは到達できていませんが、それでもaが変わることへの覚悟は他の人に対する諦めを含んだ覚悟よりも遥かに軽いもので、その軽さは、私が尊敬したaへの気持ちの重さに反比例するものだと思います。
aが変わってしまっていたのなら、それこそ私が世界に思い残すことはとても少なくなってしまうからです。

aが、「化物」にならず、また私を過剰に「化物」扱いする、人の姿をした私にとっての「化物」にならないように私は祈っています。





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最終更新日  2015.02.05 16:35:25
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