|
カテゴリ:🌾7種
あゆのバカは嫌い発言は最早鉄板。
さて、ところで彼女の言うバカって何だろう。 それはひとえに 「合理的でない」 こと、 食べもしない・積極的に近付いてくる毒でもないのに殺す事、 嫌いなのにわざわざ近付いていっていたぶる事 どうせ死ぬのだからとやる必要のない事を自滅覚悟でやる事 なのかなと思う。 あゆが愛するのは合理的で、育てたら健気に答えてくれる野菜たちだった。 あゆが愛するのは必要のないものを削ぎ落とした馬鹿の居ない世界だった。 あゆが愛するのは全てがバランス良く食物連鎖の円に組まれることだった。 物理的な「汚物」は彼女にとってその一部だった。けれど、 精神的な「汚物」は彼女にとって唾棄すべきものだった。 だからそれを消した。 だけど消すことは清らかな行為ではなかった。 己の人間的な気持ちを持って消した日から満月が追ってきた。 追ってくる満月は、鏡。彼女自身の目。 物理的にも、精神的にも、潔癖症は毎日が戦いなのに「己が汚れた」と一度でも思えばどうなるか。 愚かさを殺し続ける限り、愚かな自分を生かせはしない。 ![]() *愚かさは罪である* 桃太の場合と違っていじめっ子の場合は「毒見」ではなく、ある意味「無駄死に」で、合理的ではない。実際一人になったことで襲われやすくもなってしまった。 不合理的な、愚かな、 実に人間的な、 見殺しの意志がそこにあったから罪悪感に繋がっているのではないだろうか。 「愚かな者は生きている意味がない」 「他の者を押しのけて未来に行く意味がない」 「すべきことを間違えることは愚かである」 「愚かさは罪である」 あゆはバカが嫌い。 あゆはバカにはなりたくないし、なれない。 憎悪・嫌悪・復讐の、しなくてもよい殺害は、 それをしたいと思う人間らしい気持ちは、 全てバカが持つものである。 だからそれを持っている者はずっと罪の意識を背負い続けるべきなのであるーーーと、月は言う。 ![]() *ただ生きる* 彼女の場合、故郷にも仲間にも大して感慨は湧かない。 確固たる自分が居て、わざわざマウントを取る必要がないから。 その無理がない姿勢が、蓮華畑で微笑んだ「ただ生きる」姿が、 きっと何よりも美しかった。 「一生懸命に生き抜こうとするとてもたくましい愛すべき」姿でもあるからだ。 けれど、その美しさは愛してはいられないものとなる。 時に食虫花の美しさと甘さとなる。 優しい綺麗なお姉さんに桃太はぽーっとなり、疑うことなく貰ったご飯をただ食べた。 流星達もおっいい女、となっている。美しさはある意味無機質な武器ともなる。 そしてあゆはそれを利用することにためらいを覚えない。愛想笑いが堂に入っている。 そして、桃太に何も教えず毒見させることに罪悪感抱いていなかったりする。 そういうところはあゆの怖い所でもある。 これから知っていくかもしれない所でもある。 ![]() *バカテゴリー* あゆが「バカが嫌い」一本で絞って生きるとなると、それは植物の生き方になる。 合理的で実利的、動物のそれとは少し違うけれど本能的で全てが合理的に流れていくような法則に則った生き方。(だからこそ覚えた(法則に従った)事が役に立たなかった事に憤怒した) 「バカっぽい」「はーいバカでーす」的な生き方の楽しみを知らない。 バカのカテゴリーを一つだけだと思っていたから、どうしようもない、いずれは消える、いじめや暴行を協力や生存よりも優先する者だけをバカだと思っていた。 もう一つの「バカ」さ。それを教えたのが新巻さん、いや鷹さんだった。 生きていける「バカ」、むしろ生きるための「バカ」をボール投げばかりやった一日で体感した。 「人として生きていく」ことを彼に教えられた。 だから、月が怖くなくなった。 鷹さんと仲良くなって、あと角又・ひばりと数日間共に旅は道連れ世は情けして、 あれだけ嫌っていたバカになる気持ちが多少分かってきたあゆは、なんとも可愛い。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.02.16 03:56:35
コメント(0) | コメントを書く |