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秋さんの台湾日記

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歴史

2021年01月21日
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カテゴリ:歴史






最終更新日  2021年01月21日 18時31分35秒
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2021年01月12日
テーマ:大東亜戦争(77)
カテゴリ:歴史
あっきーの友人の戦死した叔父の戦死した地域は
昭和19年7月22日、
分緬区国 
モクライ県ザンザップ方面に於いて戦死と戸籍に記述あり
然し
調べても既に不明。

ミャンマーか?
ヤンゴン付近なのか?

わかりません。

どなたかヒントでも構いません、
ご教授ください。


よろしくお願いいたします。






最終更新日  2021年01月12日 12時44分48秒
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2020年12月10日
カテゴリ:歴史
オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、英: War Plan Orange)とは、戦間期の1920年代から1930年代において立案された、将来起こり得る日本との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。
カラーコード戦争計画のひとつであり、
交戦可能性のある当時の五大国を色分けし計画されたもので、
日本だけを特別敵視していたわけではない[要出典]。 (フェイク?)

計画は1906年の非公式調査から始まり、
当時は様々な想定がなされていた[1]。
最終的な案は
1911年に
レイモンド・P・ロジャーズ(英語版)によって考案された[2]。
1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)において採用された[3][4]


概要
カラーコード戦争計画は
連合国対枢軸国を仮定した
レインボー・プランに先行した計画であり、
その中で
オレンジ計画は
アメリカ合衆国が
日本のみと戦う場合に基づいて
研究され続けていた。

米西戦争によりフィリピン、グアムを獲得した
アメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、
日本が日清戦争により朝鮮半島を含め大陸へと進出し始めていた。
わずか半世紀前に
マシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が、
富国強兵策を取って
中国へ進出してきたことは、
米西戦争を終えた
アメリカにとって潜在的な、
しかし
警戒すべき問題となっていた。
この頃から
アメリカは
対日本戦争計画の研究作業を開始する。

日露戦争が終結すると
中国問題が
日米間で重要問題化しだし、
両国間の緊張が高まりだす。
アメリカは
日本を仮想敵国とした
戦争計画の策定に本腰を入れ始め、
一連のカラーコード戦争計画の一つである
オレンジ計画が誕生する。
これら各カラーコード戦争計画は、
後のレインボー・プランとは異なり
基本的に
一国対一国の戦争を想定しており、
外交関係や
集団安全保障に関して
考慮されていなかったのだが、
オレンジ計画では初期の頃より
『日本が先制攻撃により攻勢に出て、
消耗戦を経て
アメリカが反攻に移り、
海上封鎖されて
日本は経済破綻して敗北する』
という日米戦争のシナリオを描いて
シミレーションされ、
実際の太平洋戦争も
これに近い経緯を辿っていく。
日露戦争の最中、
第一次世界大戦といった
日本と協調関係にあった時期でも、
対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。

1919年に
海軍内で立案された頃のオレンジ計画は、
まだ大きく分けて
3つの案に分れていた。

第1案は、
西太平洋における
フィリピン、グアムなど
海外領土を要塞化し、
陸軍と海軍の兵力を前方展開する案だった。

この案は、
要塞化に
莫大な費用がかかること、
兵力の前方展開により
日本との関係が悪化するであろうことから、
ワシントン海軍軍縮条約締結に向かっていた
日米外交の時流に合わなくなり、
次第に忘れられていく。

第2案は、
緒戦では
日本軍の攻勢に対し
西太平洋のアメリカ領土が
持ちこたえることを想定していた。
カリフォルニア基地での
太平洋艦隊の編成(平時の艦船はその乗組員の半分のみ保持している)と、
日本軍の
パナマ運河への攻撃に対して
防衛することが重視され、
その間フィリピンや他の領土では
物資の供給停止を予期した
(これらの地域では、
アメリカ本土からの応援は
期待できないため
独力で持ちこたえることとされた)。

次の段階では、
兵士動員と
カリフォルニアでの艦隊編成を完了させた海軍が、
グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援するために、
西太平洋に出動する。
その後、
艦隊は日本海軍との決戦のために
真北の日本列島近海へ進み、
日本艦隊と決戦を行いこれを倒す。

最終段階では、
制海権を握ったアメリカ艦隊が
日本本土を海上封鎖し、
中国からの物資に頼る
日本の産業や軍事力を圧迫して降伏へ追い込む[5]。

この兵站無視、
戦術重視の短期決戦案は、
オレンジ計画が立案された当時、
最有力案であり
「フィリピンを見殺しにするな」
というアメリカ軍部内の一部から熱烈に支持され続けた。
アメリカ側の想定では、
日本海軍は
アメリカ艦隊の太平洋横断を許すものの、
途中で潜水艦、
空母機動部隊、
駆逐艦や巡洋艦などの
補助艦による攻撃で
アメリカ艦隊の戦力を削るという対抗策
(日本ではこれを『漸減邀撃』と呼んだ)を
作成していると考えられた。
そのような消耗を与えた後で
日本艦隊は日本近海の「決戦海域」へ艦隊を誘い込み
アメリカとの戦いを挑むとした。
これは、
300年以上にわたりそうであったように、
戦争は敵対する国家が保有する海上艦隊同士の
交戦によって決する[6][7]とした
アルフレッド・セイヤー・マハンの理論
(あらゆる主要海軍が第二次世界大戦の前に支持した学説)に合わせている。
しかし
日本軍の大幅な軍備拡張につれ、
アメリカ艦隊が来援するまで
アメリカ領土が持ち堪える公算が少なくなり、
この案への支持も少なくなっていった。

第3案は、
1909年から大規模な海軍基地建設が始まったハワイを起点に、
一旦は日本軍が侵略するであろうミクロネシアの島嶼を、
艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、
グアムとフィリピンを奪回するという
兵站重視の長期戦案であった。
そして
アメリカ海軍が
ミクロネシアの地理的重要性に気付き始めたとき、
第一次世界大戦において
アメリカと同じ連合国として参戦した日本は、
赤道以北の
ドイツ領ニューギニア各諸島を占領した
(その後ヴェルサイユ条約によって
正式にこの地域は日本に委任統治されることとなる)。
日本が急速に発展膨張して
旧ドイツ領ニューギニア地域にまで進出してきたことは
アメリカにとって、
もはや潜在的な警戒すべき問題ではなく
「脅威」となり始めていた。
そこで、
創設以来
絶えず海軍や陸軍へ解体吸収されそうになっていた
アメリカ海兵隊が、
アメリカ軍部内における組織としての
本存在価値を自ら新たに明示するため、
1921年アール・H・エリス(英語版)海兵隊少佐が
日本本土侵攻作戦についての論文
「ミクロネシア前進基地作戦行動(Advanced Base Operations in Micronesia)」を7ヶ月で書き上げる。
この論文は
既に海軍内で
非公式に立案されていた
オレンジ計画を肉付けし、
海兵隊は中部太平洋での飛び石伝いの
島嶼攻撃に重要な役割、
つまり敵前強行上陸を果たしていくこととなる。


日本側の想定
日本でも
アメリカの第2案での
日本側想定と同様な戦争計画を構想していた。
第一次世界大戦後の1923年(大正12年)に改定された
帝国国防方針では
仮想敵の第一にアメリカが挙げられ、
総力戦を戦うための物資の供給地(後方支援基地)として
中国を確保し、
アメリカ軍とは「漸減邀撃作戦」、
つまり諸外国に比べて異例の大きさと航続力を持つ一等潜水艦や、
太平洋の島嶼基地に展開した長大な航続力が特徴の
(そのため爆弾搭載量や防御力を犠牲にした)
陸上攻撃機によって、
優勢なアメリカ艦隊が
太平洋を西進してくる間に
徐々にその戦力を低下せしめ、
日本近海に至って戦力的に互角となってから
主力艦隊同士での「艦隊決戦」に持ち込んで、
最後には大和型戦艦など
兵器の質的優位により勝利する
というのが対米戦の方針であった[8]。

ロンドン海軍軍縮会議において
日本が求めた海軍比率70 %(米10:英10:日7)の根拠も、
太平洋を横断するアメリカ艦隊を
漸減邀撃で削るために
必要な補助艦の戦力であり、
この比率が「決戦海域」における
日本艦隊の優越性をもたらすものと日本側は考えていた。
アメリカも、
日本側にとって70 %の優位性は
攻撃の成功にあたり必須であるだろうと考え、
日本側に対し60 %の比率を主張している[3][8]。

誤算
アメリカの戦争立案者たち
潜水艦と航空活動の技術進歩が
マハンの学説を時代遅れにしていることを
正しく評価することができなかった。
特にアメリカの立案者たちは
航行中に回避行動が取れる戦艦を
航空機で撃沈できる可能性や、
日本の空母機動部隊が
アメリカ艦隊の戦力を削るどころか
真珠湾攻撃でなされたように遠路、
戦列である艦隊を
一挙に活動不能に陥らせるほどの
打撃力を持つことについて、
理解しなかった。

アメリカの計画は、
真珠湾攻撃を受けて変更された。
しかし
緒戦のアメリカをはじめとする
連合国軍の敗北と
ミッドウェー海戦での日本の敗北、
そしてその後も続いた
アメリカをはじめとする連合国軍の敗北の中でさえ、
米艦隊は秩序立った「島から島へ」の前進を好み、
陸上基地からの航空支援という範囲を
大きく越えることは全くなかった[9]。

一方、
日本海軍も
日本海海戦さながらの「艦隊決戦」に執着し、
対潜水艦戦の必要性と
通商路確保の持つ
死活的な役割を無視した[10]。
対潜水艦戦の必要性は、
ドイツの連合国船団に対する、
およびアメリカの日本護送船団に対する、
潜水艦による
通商破壊作戦で
まざまざと示されることになった。
1943年半ば以降に
体勢を立て直したアメリカやイギリスの作戦により、
その後日本の船団は
壊滅的な打撃を受け、
最終的に
日本の工業生産は阻害された。
日本は反通商破壊作戦を
用意することにも明らかに失敗した。

オレンジ計画 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』












最終更新日  2020年12月10日 14時55分06秒
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カテゴリ:歴史
鼂錯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

晁錯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%81%E9%8C%AF

晁 錯(ちょう そ、紀元前200年 - 紀元前154年)は、前漢の政治家。潁川郡の人。諸侯王の勢力を削る政策を進めたが、反発を受けて呉楚七国の乱を招き、自身は反乱鎮圧のためと称して殺された。本来の表記は鼂錯だが、晁錯と略字で表記されることが多い。以下晁錯で統一する。

文帝期
若い頃に張恢から刑名学(法家)を学んだ。

文帝の治世にその命により、秦の時代の焚書坑儒により廃れてしまった尚書(『書経』)を、当時90余歳の伏生のもとに派遣されて学んだ。そこから文帝より信任を得て政治に参加し始め、匈奴対策などを立案していた。また同じく太子の劉啓(後の景帝)の教育係にもなった。

この時期の晁錯の政策として有名なものが、納粟受爵制度である。当時は商業が活発となって貧富の差が激しくなり、農民の没落が目立つようになっていた。その原因の一つが、納税が全て銭納であったことで、これにより納税期になると農民が一斉に農作物を銭に替えるため、非常な買い手市場となり、商人によって安く買い叩かれがちだったことがある。晁錯はこの問題の解決策として、穀物をある一定以上の量を納めた者に爵位を与えるという制度を提案した。この納粟受爵制度により、商人が爵位を求めて穀物の買い付けに走り、農民たちの売り手市場となって農民の手元に多くの金銭が入るようになった。


景帝期
景帝が即位すると、更に深く信任されて内史(首都長官)となった。

景帝の晁錯への信頼は非常に厚く、景帝は最高職であるはずの丞相の申屠嘉の話を聞かず、遥かに低い役職である内史の晁錯が何か奏上するときは申屠嘉たちは全て下がり、晁錯と景帝が2人きりで話すほどであった。

これに腹を立てた申屠嘉は、
どうにかして晁錯を排除しようと考え、
その口実を探しだした。
そして目をつけたのが、
晁錯が役所の建物の南の壁に空けた穴であった。
この壁は、
高祖劉邦の父の劉太公の廟の垣になっていた。
高祖の父の廟を壊す、
これは不敬にあたると考え、
これを景帝に上奏して晁錯を殺そうと考えた。
しかし晁錯は、
この申屠嘉の動きを察知して景帝にいち早く伝え、
不敬に当たらないとのお墨付きを貰っていた。
その後、申屠嘉が奏上したが、
景帝はもう許してあるからとしてその言葉を退けた。
讒言に失敗した申屠嘉は
「先にあの小僧を誅殺してから奏上すればよかった」と悔やみ、
まもなく憤死した。

政敵を排除した晁錯は、
景帝の信頼はますます厚くなり、
ついには御史大夫(副丞相)となった。
しかし彼の性格は傲岸であり、
申屠嘉以外にも外戚の竇嬰など多数の敵を作っていた。
その中でも郎中から斉や呉の相を務めていた袁盎は、
晁錯を嫌うことが激しく、
袁盎がやってくると晁錯は席を立ち、
晁錯がやってくると袁盎は席を立つ
と言われるほどであった。
晁錯は御史大夫になると袁盎を弾劾し、
袁盎は罪を得て平民に落とされた。


呉楚七国の乱
前漢は、
全国を直轄領にする地方と、
諸侯王を封じて治めさせる地方とに分けて治めていた(郡国制)。
しかし文帝の元で
漢全体の国力が増大すると、
同時に諸侯国の国力も増大し、
中央の統制を外れるようになってきた。
文帝時代の賈誼は
このことを指摘して対策を求めていたが、
無理をしないという文帝の方策により、
取り上げられないままであった。
景帝は準備が整ったと感じ、
晁錯を使って諸侯王対策に乗り出した。

当時の諸侯王のうちで、
最も強い勢力を持っていたのが、
呉王劉濞であった。
領内に塩と鉄の産地を抱える呉では、
独自の貨幣鋳造も行われており、
民衆に税をかける必要がないほどに豊かであった。
また劉濞自身も、
かつて劉邦に従って
英布討伐で戦功を挙げた経験を持っており、
皇族の長老として君臨していた。
当時の皇族たちは年1回、
首都である長安を訪問することが義務付けられていたが、
劉濞の世子の劉賢が
皇太子時代の景帝との口論の末に
殺されたことから遺恨を持っており、
この義務を怠るようになった。

この大勢力には
晁錯もすぐには手をつけることが出来ず、
まず二番手以下の大国である楚・趙などの領地を
口実を設けては削り、
その権力を徐々に奪っていった。
こうなると諸侯王側も当然警戒し、
反発の度合いを深めていく。
そして、劉濞の元にも会稽・豫章の両郡を削ると通告した、
この地方は塩の産地であって
呉にとって欠くべからざる場所であった。
これを契機として、劉濞は反乱を決行した。

不名誉の死
反乱軍は晁錯のことを「君側の奸」とし、
これを倒して朝廷を清めるとの名目を立てていた。
君側の奸とは、
君主の側で君主を思うままに操り、
悪政を行わせる奸臣という意味であり、
この時に限らず、
反乱軍が直接君主を非難したくない時に
何度となく使われる論法であり、
名目以上の意味はなかった。
しかしこれを、
袁盎に付け込まれることになった。

袁盎は景帝に直接面会し、
反乱軍を抑える策があると言い、
晁錯を含めた朝臣全てを下がらせてから奏上した。
それまでは自分が行っていたことを
自分にされた晁錯は、
激しく悔しがった。
袁盎のいう策とは、
反乱軍が君側の奸と称している晁錯を殺せば、
反乱軍の名目がなくなるというものである。
景帝もそれほど事がうまくいくと思ったわけではないが、
一つの方策ではあると考えてそれを許可した。

「刑不上大夫(刑は大夫に上らず)」(『礼記』)といい、
当時は士大夫階級の者には
刑罰は適用されないのが普通であった。
もちろん無制限に悪事が認められていたわけではなく、
もし刑に相当することを犯した場合には
「役所へ出頭せよ」という命令が来て、
それを受け取った者は自らを裁く、
すなわち自殺しなければならない
という暗黙の了解があった。
士大夫には刑場で殺されるような不名誉なことは
科せられないということである。
しかし、
晁錯が処刑されるときには
これが適用されず、
首都長安の中尉の嘉に騙されて市場に引き出され、
腰斬により処刑された。
その一族も皆殺しの刑に処された。

この処刑の数ヶ月前に、
晁錯の父親は
削藩に執念している晁錯を諌めるために
故郷から上京した。
これに対応した息子の晁錯は、
「削藩しなければ皇帝が尊敬を得られず、
宗廟も不安となる(不如此、天子不尊、宗廟不安)」と答えた。
父親はこれに対して、
「このままだと劉家は安全になるとはいえ、
晁家は滅ぶだろう。
私はこの世から去るからお前の好きなようにせよ(劉氏安矣、而晁氏危矣、吾去公歸矣)」
と言って、
故郷に戻ってまもなく
毒を飲んで自殺した(遂飲薬死)。
結局は父親の指摘通りになったのであった。

評価
呉楚七国の乱は、
晁錯の死でも収まらなかったが、
周亜夫の活躍などにより3ヶ月で鎮圧され、
その後は晁錯が志向したように、
諸侯王の権力は大幅に削られていった。

晁錯はその傲岸さから
周囲との軋轢を生み、
自らは死に至った。
しかし抑商政策・諸侯王対策などの政策は、
それ以降の漢でも踏襲された政策であり、
その行動は全て景帝の承認したものであった。

一方で、
宮廷の権力が絶対化されたことは、
宦官や外戚が宮廷を掌握した際に、
これを抑える勢力がいなくなったことを意味する。
したがって、
皇帝や実権者の個性に大きく振り回される政治
外戚と宦官の専横
抑商政策による経済の衰退に起因する財政悪化
密告社会化による法への不信と、
理不尽にも罪に落とされた者たちによる匪賊の形成
といった前漢の衰退原因は、
晁錯により作られたという見方もできる。

なお、
晁錯を死に至らしめた袁盎ものちに、
梁王劉武(景帝の同母弟)が帝位を継ぐことを
止めさせることを景帝に強く諫言したために、
劉武の恨みを買って、
刺客に暗殺された。
『史記』では袁盎と晁錯を同じ巻に収めており、
『漢書』でもそれを踏襲している。

「朝令暮改」という熟語は、
晁錯が文帝に出した奏上文の
「勤苦如此、尚復被水旱之災、急政暴賦、賦斂不時、朝令而暮改」
(『漢書』巻24食貨志第4上、清の呉楚材・呉調侯『古文観止』に引用あり)に由来する。













最終更新日  2020年12月10日 13時47分27秒
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カテゴリ:歴史
1.去稚心(稚心を去る。) : 目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべき。
2.振気(気を振う。) : 人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。
3.立志(志を立てる。) : 自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。
4.勉学(学に勉む。) : すぐれた人物の素行を見倣い、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、自らも用心し慎むとともに、それを指摘してくれる良い友人を選ぶよう心掛ける。
5.択交友(交友を択ぶ。) : 同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。益友には、次の5つを目安とする。
・厳格で意思が強く、正しい人であるか。
・温和で人情に篤く、誠実な人であるか
・勇気があり、果断な人であるか。
・才知が冴えわたっているか。
・細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。

7歳で漢籍・詩文と書道を[13]、8歳で漢学を学び、生涯を通じて学問武道に励んだ[14]。 左内が15歳の時に著した『啓発録』に、後年、序文を記した矢嶋皞によれば、当時の橋本左内は、学友が激論しているときも常にうつむいて行儀よく座り、皆の話を黙って聞いているような少年で、自分の学才を表に出さず、沈思黙考しているような人物だった[15]。『啓発録』は、左内がそれまでの生き方を省み、その後の生き方の指針として5項目を定め、著したものとされる[16][17]。上記はその概要である。
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%B7%A6%E5%86%85











最終更新日  2020年12月10日 13時20分32秒
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カテゴリ:歴史
馬関戦争 下関戦争 Wikipedia

下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と同4年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。

敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。

歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い[2]。馬関は下関の古い呼び名。今では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している[3]。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、1863年のことを「下関事件」、1864年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある[4]。












最終更新日  2020年12月10日 13時09分00秒
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カテゴリ:歴史
薩英戦争 Wikipedia


薩英戦争(さつえいせんそう、
文久3年旧暦7月2日–4日
(1863年8月15日–17日))は、
薩摩藩とグレートブリテン及びアイルランド連合王国[注釈 3] (イギリス)の間で戦われた戦闘。文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)
に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した
生麦事件の解決と補償を
艦隊の力を背景に迫るイギリスと、
主権統治権のもとに
兵制の近代化で培った実力で
これを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、
鹿児島湾で激突した。

薩摩方は
鹿児島城下の約1割を焼失したほか
砲台や弾薬庫に損害を受けたが、
イギリス軍も
旗艦ユーライアラスの艦長や
副長の戦死や軍艦の大破・中破など
大きな損害を被った。
この戦闘を通じて
薩摩とイギリスの双方に
相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、
これが以後両者が一転して接近していく契機となった。

鹿児島では
まえんはまいっさ(前の浜戦)
と呼ばれる
(城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため)[9]。











最終更新日  2020年12月10日 13時02分50秒
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カテゴリ:歴史
ネルチンスク条約  世界史の窓 山下輝男先生

1689年、ロシアのピョートル1世と清の康煕帝の間で締結された国境協定。清朝にとって最初の国際条約であり、シベリアに深く入り込んだ大幅に有利な内容であった。

 17世紀後半、ロシアのピョートル1世(大帝)は、シベリアへの進出を積極的に進め、ロシアの探検家や商人が満州地方の北辺に出没し始め、黒竜江(アムール川)流域で毛皮や金を奪う動きを示した。それに対して、清朝は、三藩の乱で北方の防備が手薄になっていたが、乱を平定した康煕帝は北方に目を向け、1685年に軍隊を送ってロシアが建設していたアルバシンの城塞を攻撃、その進出を抑えようとした。3年間の戦闘を経て、康煕帝はピョートル大帝に親書を送り国境協定を提案した。両国の代表は1689年、ネルチンスクで会談し、ネルチンスク条約として調印した。なおこの交渉で通訳に当たったのは清朝側のキリスト教宣教師であった。康煕帝は西洋人宣教師を使い、中国最初の外国との条約を締結したのだった。
ネルチンスク条約の内容

両国国境を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(黒竜江上流)を結ぶ線とする。
ロシア側はアルバジン城を放棄し、ネルチンスクにおいて通商貿易を行う。
ネルチンスク条約の意義

これは、中国が外国と対等に結んだ最初の近代的条約として重要である。
また現在のロシアと中国の国境から見れば、大幅にロシア側に食い込んでおり中国にとって有利な条約であった。
清が外国との対等な貿易を認めたのは、朝貢貿易の原則の中の例外である。
イエズス会宣教師の役割

 1689年の、中国が締結した最初の国際条約であるネルチンスク条約の締結にあたっては、清朝の宮廷で重く用いられていたイエズス会宣教師たちが重要な役割を果たした。ネルチンスクでの折衝では中国側全権のソンゴト(満州人)を補佐して、イエズス会士ジェルビョン(中国名張誠)とペレイラ(中国名徐日昇)が参加した。条約はラテン語、ロシア語、満州語で書かれ、正文はラテン語とされた。
その後のロシアとの国境交渉

 1727年のキャフタ条約で中央アジア方面モンゴルの国境を確定。19世紀にはいるとロシアの圧力が強まり、1858年の愛琿条約、1860年の北京条約で清はネルチンスク条約の協定を大幅に後退させることとなる。1881年のイリ条約ではねばり強い交渉でイリ地方を確保した。 → ロシアの東アジア進出  中ソ国境紛争










最終更新日  2020年12月10日 12時46分54秒
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カテゴリ:歴史
日露戦争 世界史の窓 山下輝男先生


1904年、
満州と朝鮮への侵出をはかる
ロシアと日本が衝突した
帝国主義戦争。
日本が実質的に勝利し、
大陸進出を果たした。

 ロシア帝国のツァーリズム政治体制は、
ニコライ2世のもとで
国内の矛盾を深刻化させていたが、
シベリア鉄道の敷設などのアジア方面への勢力拡大で
それを解消しようというねらいがあった。
ロシアの満州・朝鮮への進出に対して、
日本は日英同盟の締結によって
イギリスの支援を得、
1904年2月、
ロシアとの全面対決に踏み切った。
このように日露戦争は、
帝国主義的な膨張政策を採る
両国の衝突として起こった帝国主義戦争であった。

 日本は日露戦争において、
その軍事費として
17億円を必要としたが、
そのうち8億円は
ロンドンとニューヨークで
外債を募集してまかなった。
イギリスとアメリカは外交的な面だけではなく、
経済的にも日本を支えていたと言える。
その意図は
ロシアのアジア進出を抑えるために
日本を支援すると言うことであった。
ロシアは、
フランス資本とドイツ資本の支援を受けた。
この両国は、
ロシアがアジア進出に専念することで
ヨーロッパでの野心を弱めるであろうことを期待していた。

 日本にとって
日露戦争は、
ヨーロッパ諸国と戦った
最初の戦争であったが、
世論の分裂の無かった日清戦争に対し、
国内にはかなり根強い戦争反対の声が起こっていた。
キリスト教の立場からの内村鑑三や、
社会主義の立場からの幸徳秋水ら、
歌人の与謝野晶子等の
戦争反対の声は非戦論として知られている。

戦争の経過
 1904年(明治37年)
2月に開戦、
ほぼ1年かかってロシア軍の旅順要塞を占領し、
05年3月の奉天会戦で大勝し、
5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を破った。
すでに1905年1月に血の日曜日事件を機に
第1次ロシア革命が起こっていたロシアは
戦争継続が困難となり、
日本もこれ以上の戦線の拡大と
戦争の長期化は
国力の限界を超えるおそれがあったため、
同年9月、
アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で、
ポーツマス条約を締結し講和した。
(抜粋)










最終更新日  2020年12月10日 11時02分54秒
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カテゴリ:歴史
義和団事件 世界史の窓 山下輝男先生


1900年、中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。清朝(西太后)は当初鎮圧を図ったが、北京を占領されるにおよんで支持に転じ、列強に宣戦布告した。しかし英米仏露日など8ヵ国連合軍が北京を奪回し、列強の帝国主義的中国分割が進んだ。

 義和団の蜂起に押されて清朝政府が列強に宣戦布告し8ヵ国連合軍との戦争に発展、1900年8月には8ヵ国連合軍が北京に侵攻した。北清事変ともいう。敗れた清朝は列強と北京議定書を締結、中国分割がさらに進んだ。アフリカにおける南ア戦争、ラテンアメリカ・フィリピンにおける米西戦争などと共に帝国主義による世界分割の一環であった。

19世紀末の中国
 日清戦争の敗北をうけて、清朝内部で始まった康有為等の戊戌の変法はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだなどと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動を仇教運動ともいう。
 そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。この運動は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになった。

義和団
 義和団は、かつての白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に集結して蜂起し、義和団事件となった。背景には、当時の華北の黄河流域で、たびたび洪水が起き、民衆生活に大きな犠牲が出ているにもかかわらず、清朝が無策であったことも挙げられる。
義和団事件の勃発
 1900年6月、蜂起した義和団は、たちまち北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。

8ヶ国連合軍の北京出兵
 これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に入り義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。8ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。

北京議定書の調印
 北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年9月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。
 北京議定書では、4億5千万両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。
その後の中国とアジア情勢
 西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる光緒新政を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができなっていった。
 1894年に興中会を組織した孫文は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会や華興会などの反清団体を結集し、1905年に孫文を総裁とする中国同盟会が組織され、これが辛亥革命による中華民国の成立を実現させ、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。
 アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、その侵出を恐れた日本とイギリスが1902年に日英同盟を締結したことに現れている。しかしイギリスは当時、南アフリカ戦争の直後であったため自らは動けず、またアメリカもロシアを警戒していたがアギナルドらの指導するフィリピン共和国とのフィリピン=アメリカ戦争を戦っていたため介入できず、日本は単独でロシアと戦うこととなり、1904年に日露戦争の勃発となる。











最終更新日  2020年12月10日 10時37分13秒
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