カテゴリ:野口体操 勉強会メンバー
「寝にょろ」(力を抜いて仰向けに寝ている人をゆすってみる動き)について野口先生が書かれた文章の中の一つにこういう言葉がある。
「生きている人間のからだ、筋肉をなるべく休ませた場合、骨を内に含みながら、そのままの全体が液体的であることの実感をつかむために、適切な運動であると思っている」 (『原初生命体としての人間』より) そのままの全体が液体的である実感とはどんなものだろう。 寝にょろの動きをする前に、ビニール袋に水を入れてなるべく空気を抜いた状態の水袋に触れた。 水袋は中身の伝わりがよく見え、自分のからだに乗せてみることなどで重さということも体感できるので液体的な世界を味わう手がかりとしてはとても頼もしい存在だと思う。 水袋に何回も繰り返し触れていく中で、思い感じたことがある。 まず触れ方のこと。水袋に触れる際に表面だけに触れる時と、中身に触れようとする時では自分のからだの様子が随分違った。中身に「より触れよう」と思って触れる時の手や腕が、からだの外についている手や腕ではなくからだの中の方から生まれ出てくるという感じがあって面白いと思った。 それから動きのこと。水袋を床に置いて50cm程移動させる。袋の1ヶ所をつまんでそのまま引きずるようにして動かすのと、水袋の底に手を入れて差異をつくることで中身を動かして袋を転がすように動かす。はじめの方の水袋の重さは「重荷」とも言いたくなるような重さだが、後の方は「重さを軽くつかう」とは、こういうことか!と思う、生きた重さという感じがあり、質量としてのものの重さではなく、次々に変化していく出来事としての重さだとも思った。 「・何かそこにある「もの」が主体ではなく、「こと」が 主体であり存在である。 ・「こと」とは「事・言・異・殊」であり、ものの在り方(働き・作用・所作・状態・様相・性質・関係等)を指示する語である。一言で言えば「関係及びその変化」と言えよう。 ・体操とは、今「もの」であるからだを、「こと」としてのからだに生まれ変えらせようとする営みである。」 (『原初生命体としての人間』より) 水袋に様々な方法で触れていくうちに、自分のからだもほぐれていく様に思う。それは他の人を見ていてもよくわかった。 水袋を頭に帽子のように乗せてみたり、「胎児の姿勢」(力を抜いて寝て足をまるめて頭の先にぶらさげる動き)になったところでお尻にのせたり、巨大な水袋に全身をのせて座る、四つん這いになって背中にのせたりと、思うままに面白く関わっていくと、よりよくほぐれていくようだった。 そんな風に液体的な世界がからだに伝わってから、自分のからだではどうだろうかと静かに横になってみた。 楽に寝た状態でゆっくりと大きく息をすると、からだの中身が波をつくっているのを感じた。からだには水袋と違って右と左がある‥と気がつき、それをたしかめるようにしていると左右に差異ができで中身が動くように感じた。 液体的なからだを思うことで少しからだが動き、それは考えて動きをつくろうとすることと違うように思い、このことはとても大切に思えた。 私は仕事で身体介助をしているのだが、ある日人のからだを抱える時に、ふと寝にょろのことを思い出して「どちらのからだも水袋」というイメージで抱えてみた。力は入れないで、深く大事に抱えこむような体勢に自然となって楽だった。「今、自分のからだはやさしいな」という言葉がうかんだ。「やさしい」というのは、気持ちや感情というより、からだのあり方や状態のことをいうのかなと、からだで実感したところから言葉が出てくるという経験がとても面白く、自分にとっては確かである気がした。 寝にょろを追い求めていく中で得た、私にとってのいくつかの発見や実感をこれから動いていく中で展開していけるように体操に取り組んでいきたいと思う。 加藤知子 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 13, 2020 06:41:26 AM
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