カテゴリ:本の感想(さ行の作家)
島田荘司『眩暈』 ~講談社ノベルス、1995年~ 御手洗潔シリーズの長編です。以下、内容紹介と感想を。 1992年春。御手洗の事務所を、東京大学理学部教授が訪れる。二人は雑談をしていたが、ふと教授が一つの冊子を思い出す。それは、失踪した彼の教え子が持っていたというノートで、次のような内容であった。 環境問題に多大な関心をもち、食べるという行為にさえ嫌悪感を感じる一人の青年―三崎陶太の手記である。陶太は、香織お母さんに育てられていた。彼の父は映画俳優である。陶太がふと、父の出演した初期の映画である『今日ですべてが終りだ』について知っているか尋ねると、優しい香織の態度が豹変し、顔を醜く歪めながら陶太をしかり始めた。そこに、陶太がお世話になっている加鳥が訪れると、香織は加鳥をののしり、彼を攻撃し始める。さらに、そこに拳銃をもった強盗が訪れる。強盗の銃により、加鳥と香織が倒れる。陶太は、救急車を呼ぼうと電話をかけるが、聞こえてくるのは数字だった。さらにマンションから出ると、外の様子はいつもと全然違っていた。アスファルトはなくなり、江ノ島の鉄塔もなくなり、二本足の動物も歩き回っていた。あきらめて部屋に戻った陶太は、死体を使って実験できると考えた。彼は、石岡和己の著書『占星術殺人事件』を愛読しており、死体の部分を寄せ集めて完璧な人間を作りたいと思っていたのだった。彼は、苦労の末、二人の遺体を切断し、香織の上半身と加鳥の下半身をあわせた…。 この内容が分裂症患者の妄想だと考える教授に対して、御手洗は、これは実際にあった事件だと言う。石岡が調査を進める中で知り合った雑誌記者・藤谷の協力をえながら、御手洗たちは、奇妙な手記から、現実の事件を解明することになる。 数年ぶりの再読です。 現実離れしたテキストから、現実の事件が解明されていくという構図は、本作よりも後に発表された『ネジ式ザゼツキー』にも見られますが、やはりわくわくします。本作は、初読のときも感じたように記憶していますが、もやもや気持ち悪さが残るような感じがします。タイトルのせいもあると思いますが…。 手記の中で語られる環境問題―主に食糧に関する問題ですが、やはり考えさせられてしまいます。豊かさとはなんだろうということを漠然と思いました。まだまだ勉強は足りませんが、人間のいわゆる文化・文明の発展は、人間の「動物」的な部分をそぎ落としていくような過程だと感じます。自動車で走り、飛行機で空を飛び、食糧を自ら獲得することなく、金銭という手段でもって購入する。農薬まみれで添加物まみれの、いわゆる「自然」の状態ではない食品を摂取することも、きわめて「人間」的なことなのでしょうね。 …今回も、やっぱりもやもやします。事件自体は筋が通った解明がなされるので、そういう意味でのもやもやではなく…。事件関係者の背景を考えるせいでしょう。 『暗闇坂の人喰いの木』から『アトポス』までの四作のノベルス版は、大理石風の装丁で統一されていて、けっこう好きです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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