ペット病
数日前の新聞に米・中・韓・日の青少年意識調査の結果が載っていた。マスコミ各社は、日本の青少年がテレビ、携帯電話、ゲームなどに寄せる関心が高いのに比べ、学業に対する関心が低く、総じて向学心に欠けているという趣旨の報道を行っていた。たまたま記事の最後にリンクが張ってあったので、調査結果そのものを少しのぞいてみた。まあ、四ヶ国の選び方にもやや偏差が感じられるし、質問項目もあまり検討を重ねた結果とは思えないものも多く、これという収穫はなかったものの、やはり日本の青少年の精神的動向の一端はそこに表れているように思った。細かな数字は挙げないが、学業に対する関心は低い。しかし一方で学業に対する不満は高い。これは一見矛盾しているように見える。しかし、他の項目を眺めても、これに類する結果が実に多いのである。おもいきり単純化してその傾向を一言にまとめてしまうと、「不充足感はきわめて高いが、具体的な不満はない」ということになるだろうか。多くの項目から、日本の若者が日常生活において、ぶすぶすとくすぶる濃厚な不充足感を日常的に感じていることはよくわかる。しかし「いったい何が不満なんだ」と正面から問われると、もごもごと口ごもってしまう。そういう特徴があるように私には読みとれた。「えー、今の生活に満足してますかだと。じょうだんじゃねーよ、まんぞくできるわけないだろう、こんな生活によー。えー、じゃあ、具体的に何が不満なんですかってか。それがわかれば苦労はしねえんだよー」若者のメンタリティーはこういうふうに要約できるだろうか。不満を感じてはいるが、具体的な不満はない。そういう存在が身の回りにいないかどうか、私はしばらく頭をめぐらせてみる。心の底から満足している様子はない、しかし一応最低限の生活はできている、でも覇気はない、活力も乏しい、これという目標もない、惰性で生きている、自分で突破口を見出せない、総じて野性的なエネルギーに欠ける。ひとつだけ思い浮かんだ。それは「ペット」である。毎日毎日三度三度の食事は一応まかなわれている。飢える心配はない。だが生きる上でのたしかな目標はない。飼い主の精神面の支えになることはあるけれども、それもあくまでも補助的な役割にすぎない。主食ではなく、サプリメント扱いだ。誰かの目的ではなく、手段だ。守られ、保護され、養われてはいるが、主体的な行動は期待されていない。飼い主の想定内での生活。安逸と退屈の同居。リスクはないが、スリルもない。それがペットの生活である。そもそもペットという存在が、自らの自由を差し出す代わりに生活の保障を受けている以上、そういう生活を余儀なくされるのはやむをえない。いやなら出ていけばいい。飼い主はそういうだろう。でもペットにはそれができない。彼らは生まれながらのペットである。外に出ていった後の生活をイメージすることが彼らにはできない。彼らは行動の自由を奪われているだけではない。それをイメージする自由すら奪われているのだ。イメージできないことを行動に移すことはできない。だから彼らは家の中にいるしかない。不満をぶつけるならば家の中の人間か、けっして自分に抵抗してこない弱い存在に限られる。そうすることによって、彼らの自身に対する不充足感はますます高まる。そういう卑劣な手段でしか抵抗することのできない自分自身のふがいなさも、新たなストレスの原因となるからである。そして日当たりの悪い沼地の表のように、彼らの内面にはいつもぶつぶつと小さな不満の泡が浮かび上がり、それははっきりとした形をとらないままにガスとして力無く空中に放出される。ペット病。自立することを期待されず、予期すらされていないことからくるストレス、そして、自らの自立をイメージすることすらできないことのもたらす絶望。彼らにとっては「学業」というものは自立への手がかりとは認識されない。それはペットの品評会で上位に入賞するための技能訓練にすぎないのだ。そんなものにどうやって熱意をかき立てることができるだろうか。多くの若者はそういうだろう。しかし、考えてもみてほしい。君たちの隷属をもたらしているのはなんなのか。君たちが自らを拘束する鎖を断ち切ることができないのはなぜなのか。それは自立をイメージできない精神の衰弱のもたらす結果ではないのか。もしもそうだとしたら、まずは精神を解放する術を学ぶしかないではないか。そしてそれを可能にするのは、自ら考える力を自らビルトアップすることしかない。そうではないですか。考える力を鍛えるためには、ことばの力を鍛え上げるしかない。黙々とことばの筋力トレーニングを行い、それを使って他者とスパーリングを積み重ねる,それしか方法はない。退屈きわまりない学校生活においても、ことばの力を鍛え上げる上で効果的なものを選択することは可能だ。それらを選択し、組み合わせ、鎖を断ち切るプログラムを自力で作り上げることはけっして不可能ではないはずだ。幸い少子化に拍車がかかり、高校も大学も経営が苦しい。入学は容易であり、選抜方法も複線化、多様化する傾向にある。小論文入試という方法もある。いっておくが、私は若者の将来を憂えているわけではない。自分が死んだ後に若者がどう生きようとそれは君たちの勝手だ。自由にやればいい。私が君たちに関心をもっているのは、君たちが私たちの似姿だからだ。鏡だからだ。若者たちに対してマスコミは多くの情報を発信する。私はそのようなことばをなにひとつ信じない。でも、自分の経験から君たちの特質をひとつだけいうとするならば、それは「すなお」だということだ。後続世代は先行世代を模倣する。そのことに例外はない。ただその模倣は二つの形態をとる。そのままの形で模倣するか、裏返して模倣するか、その二つである。七〇年代まで、この国の多くの若者は後者の模倣を選択してきた。それは多く反逆といわれた。しかし、八〇年代以降、その模倣は前者に移行しつつある。これが私の実感であり、見立てである。私は自分の実感しか信じない。君たちに欠点があるとすれば、それは少しばかり「すなおすぎる」ということである。だから君たちがペット病をわずらっているのは、われわれ先行世代がペットだったということのなによりの証しなのである。私はそう思う。わずかばかりの金銭のために飼い殺しにされ、ぶすぶすと不満の鬱積した顔をぶらさげて満員電車の吊革にぶらさがるわれわれの顔を君たちは目に焼きつけ、それを模倣しているのだ。だから、私は君たちのペット病を黙ってみていることができないのである。それは君たちの問題というよりも、むしろわれわれの問題だからだ。自分の首についている鎖を噛みちぎるためには、ことばの力をつけるしかない。この処方箋も君たちに対してというよりも、自分に対してのものなのである。とにかくも漠然とした不満などというペット病を脱するために、その不満をとりあえずは自らのことばの力に対する不満へと具体化するところからはじめてみてはどうだろうか。あれ、返事が返ってこないな。ああ、そうか、これは自問自答だったんだ。「とりあえずそうすることにしますです。はい。」えっと、いったい、私は何の話をしていたんだっけ。