101.海軍空挺作戦(1) 落下傘降下は当時ソ連では青年男女の間で、もっともポピュラーなスポーツだった
(カモメ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)のによると、落下傘の落下速度による着地の衝撃は大体1.5メートル~2メートルの台の上からから飛び降りたくらいのものと同じということです。(ウツボ)著者の山辺雅男氏は海軍兵学校66期で元海軍少佐。メナド空挺作戦に中隊長として参加している人だね。確かな話だね。(カモメ)そうですね。2メートルの高さから飛び降りる。その位なら、できそうですね。(ウツボ)子どもの頃、川の橋の欄干から下の砂地によく飛び降りて遊んでいたが、あれは3メートルはあった。(カモメ)3メートルですか。しかしそれは、子どもだから体重も少ないし、体も柔らかいから、けがもしなかったのでしょうが、大人だったらどうでしょうか。(ウツボ)そうだね。海水浴場の飛び込み台だって怖いと感じることがあったからね。(カモメ)ウツボ先生は落下傘で飛び降りたいと思いますか?(ウツボ)いやいや、俺は結構だ。普通の人はやってみようと思わないだろうね。カモメさんはどうですか。(カモメ)俺も軍用の落下傘はね、ちょっと。けれども、パラグライダーの大会が周防大島町で毎年ありますから、何回か見に行ったことがありますね。あれならやってみたい。(ウツボ)ああ、パラグライダーはスポーツですね。(カモメ)高い山の山頂から離陸して、大空を滑空して海のそばの広場に着地するのですが、すばらしいですね。(ウツボ)それは、慣れれば爽快だろうね。(カモメ)でも、俺がパラグライダーの大会を見学に行った時、多数の見学者の前で、ある選手が着地寸前で操作を誤り失速して一直線に落下しました。(ウツボ)ええっ、どのくらいの高さから?(カモメ)だいぶ前のことなのではっきり覚えていませんが、5メートルはあったと思いますね。すごかったですね、パラシュートがゆがんでしぼんで浮力が失われると同時にストーンと一直線に落下しましたから。(ウツボ)怪我はしたの。(カモメ)ええ。確か背中から落ちたと思います。すぐに救急車で運ばれていき、命は別状ないとのことでしたが、怪我をしたということでしたね。(ウツボ)重力の恐ろしさだね。(カモメ)足から着地すれば、よかったのでしょうが、失速ですから、本人もどうしようもなかったのですね。(ウツボ)あっという間だからね。(カモメ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)のによると、落下傘を最初に軍が取り入れて訓練を実施したのはソ連ですね。(ウツボ)そうだね。1929年(昭和4年)に武装兵団の集団落下を組織的に研究し、1936年(昭和13年)11月にモスクワ赤軍大演習でパラシュート部隊の大演習を行なった。これに、世界中が注目した。(カモメ)落下傘降下は当時ソ連では青年男女の間で、もっともポピュラーなスポーツだったということです。各地に落下傘学校があり、全国の公園やスタジアムなどに1000以上の落下傘塔があり、その上から飛び降りて楽しんだ。(ウツボ)そうだね。当時八十万人以上の青年男女が参加していたと記されている。(カモメ)ドイツ、フランス、イタリアはソ連の落下傘部隊に関心を持ち、相次いでその研究と訓練に取り掛かっていますね。(ウツボ)日本の陸海軍はこれよりずっと遅れ、昭和15年末にやっと落下傘部隊の研究に着手したんだ。(カモメ)もっとも民間の工場では早めに着目して研究開発を行なっていましたね。(ウツボ)そう、欧米数カ国の特許をとり注目を受けていた野中式パラシュート(発明者・野中肖人)の低空落下試験が、昭和11年11月21日、州崎飛行場で行なわれたんだ。(カモメ)そのとき来賓として英、米、トルコ、ソビエトなど各国の武官がにぎやかに列席して非常に賑わいをみせていたということです。(ウツボ)日本パラシュート製作所技術員・肥後清三が野中式パラシュートにより、世界で初めて最低空の三十メートルの高度から冒険落下を行なうというものだった。(カモメ)発明者、野中氏から観衆一同に紹介があり、サムソン複葉機で飛行場の東側から離陸しました。(ウツボ)肥後清三の実験前にロボットによる低空降下実験はすべて成功していたんだ。(カモメ)午後2時2分、肥後はアジア飛行学校格納庫上空三十五メートルから飛び降りました。(ウツボ)ところがパラシュートはどうしたものか、開かずに、肥後の体は、アッという間に、群がる自動車の前方に落下して、ドウッという地響きとともに地面に激突した。即死だった。(カモメ)お披露目の華やかな舞台は一転、悲壮な修羅場に変わりました。(ウツボ)このような失敗を積み重ねて落下傘の歴史は展開していったんだね。(カモメ)ここらで空挺作戦の特徴について述べたいと思います。軍事的に落下傘部隊の空挺作戦は成功すれば、驚くべき効果をあげるが、失敗だと全滅の恐れがある。それが落下傘を使った作戦の特徴ですね(ウツボ)だから落下傘部隊の隊員は、日本陸軍でも海軍でも最優秀で最強の兵士を採用している。現在の自衛隊でもそうだけど。装備も軍中央当局は出来るだけ空挺部隊に最優先で最新装備や武器を与えているんだ。(カモメ)「昭和戦争文学全集4太平洋開戦」(集英社)の中の「メナド降下作戦」によると、昭和16年9月、横須賀鎮守府の特別陸戦隊である海軍落下傘部隊は、全力で降下訓練を行なっていました。(ウツボ)当時落下傘は150個くらいしかなかった。だが航空本部などからの催促で藤倉航空工業では不眠不休で製作を続け、次々に部隊に落下傘を納入した。(カモメ)当時入隊当初の基礎訓練は、堀内中佐のデンマーク式落下傘体操二時間、ブランコおよび飛び出し訓練一時間、落下傘折りたたみ整備訓練三時間、同乗慣熟飛行一時間、航空機・落下傘に関する座学一時間という内容であったと記されています。