196.沖縄玉砕戦(16) 閣下は何故作戦指揮について、一言もされんのですか?
(カモメ)牛島軍司令官は戦闘が始まってからも、その態度は平常と少しも変わらなかった。一切を長軍参謀長以下に任せて自らは悠々としていたのですね。(ウツボ)そうだね。牛島軍司令官の話し相手には女子師範学校の西岡校長が選ばれていた。あるとき西岡校長が牛島軍司令官に「閣下は何故作戦指揮について、一言もされんのですか? 私がもし司令官だったら、とてもじっとしておれません」と話しかけた。(カモメ)そのとき返ってきた牛島軍司令官の返事は、「軍司令部にはそれぞれの専門家がおる。俺がかれこれ言うよりは、その専門家達に頼んでやってもらった方が、結果が良いのだ」というものでした。(ウツボ)作戦は優秀な参謀達や司令部の高級幹部に任せるということだろうね。(サヨリ)でも、私、不思議に思うのですけど、確かにスタッフに優秀な専門家はいるでしょう。でも、牛島軍司令官も、軍人として優秀だから陸軍中将まで昇進して沖縄守備軍の軍司令官に任命されたのですね。だったら、作戦指導を他人に任せたりしないで、自分も意見をどんどん言って、少しでも作戦を成功に導くという努力をなぜしないのかと。(ウツボ)うん、確かにそのような疑問は浮かぶけどね。それは牛島軍司令官の考え方によるとしか言いようがないね。でも一応推察して見ると、牛島軍司令官の場合は、それまでの履歴は、戸山学校や予科士官学校、士官学校などの校長職が多く、教育畑だ。第十一師団長をやったのは五年位前だ。だから作戦畑ではない。それに牛島軍司令官は当時五十七歳だ。緻密な作戦を抜け目無く構築したり、次々に移り変わる戦況を素早く分析して作戦指導を行うには、やはり三十代、四十代の精鋭の作戦参謀の頭脳が中心になる。それで自分が口を出して混乱させるよりも、一切彼らに任せたほうがいいと思った。(カモメ)だけど、硫黄島の小笠原兵団の指揮官、栗林忠道陸軍中将(陸士二六・陸大三五恩賜)は、全島を駆け巡りながら防備の作戦指導を自ら行いましたね。地下トンネルを掘り、硫黄島を頑固な要塞化して、上陸した米軍に多大な損害を与えました。(ウツボ)それはね、栗林中将の兵団司令部には参謀長と三名の参謀がいたが、いずれも陸大専科(陸軍大学校一年在学の短期教育)出の参謀だった。栗林中将は正規の陸大を恩賜で出た作戦のエキスパートだ。彼は陸大専科参謀を評価しなかった。だから自分で細部まで仕切った。それに栗林中将は当時五十三歳で、若い中将だった。先ほども言ったけど、一方、沖縄守備軍には長中将や八原大佐など優秀な作戦家がいたから、牛島軍司令官は彼らに作戦を任せた。(サヨリ)それは、つまり、作戦参謀の力を発揮させて作戦を成功させれば、軍司令官の職務は果たせるということでしょうか。(ウツボ)それだけではないと思うけどね。でも参謀の職務は作戦をたてることだし、軍司令官の職務は軍の統率だから。(サヨリ)作戦は軍の統率の範疇にあるということですね。(ウツボ)ええ、当然そうなんじゃないですか・・・。参謀の作戦原案を決済すれば、それは軍司令官の作戦になるのではありませんか。じゃあ、サヨリさん、それでは、もし日露戦争の第三軍司令官、乃木希典大将が、牛島軍司令官の代わりに沖縄第三十二軍の軍司令官だったら、どのような指揮をとったでしょうね。(サヨリ)ええっ、乃木将軍ですか。(ウツボ)ハハハ、突然、突飛な質問でごめんなさい。サヨリさんは乃木将軍の研究をされているので、仮定の話としてどうでしょうか。(サヨリ)う~ん・・・それは、難しいですね。乃木将軍の作戦指導はあくまで正攻法ですから・・・、日露戦争当時と違って、陸海空による沖縄戦は複雑な戦闘状況なので、対応する戦略は限られてくるのでは。(カモメ)牛島司令官は鹿児島出身で、よく同郷の西郷隆盛のような人だといわれて、作戦は長軍参謀長や八原高級参謀など幕僚に任せた訳ですよね。乃木将軍は信念の強い軍人で、ワンマンなので、参謀を押さえて自分が主導的に沖縄戦を指揮するのではないでしょうか。(サヨリ)確かに乃木将軍は非常に責任感が強く、また、信念の人ですね。でも沖縄戦で、ワンマン的に作戦を指導することは難しいのではないでしょうか。(カモメ)そうでしょうか、乃木将軍なら、持久戦法ではなく、自ら指揮をとって、アメリカ軍に対して積極的な攻撃を繰り返すのでは。(サヨリ)でも、日露戦争の旅順攻撃で息子二人を戦死させたとき、乃木将軍は前線に出て自ら死のうとしました。周りの参謀たちが止めましたが、第三軍の軍司令官という立場を忘れるほど、自らの思いにとらわれる人でもありますね。(カモメ)というと?(サヨリ)乃木将軍が沖縄戦の指揮をとったとしたら、おそらく、作戦はスタッフの参謀が主導権を握ると思います。(ウツボ)それは、つまり、牛島軍司令官と同様な状況になるということだね。(サヨリ)いえ、乃木将軍は恐らく長軍参謀長とは肌が合わないので、長軍参謀長に任せたりはしないと思います。また、乃木将軍は常に自分の考え方は明確に示すと思います。ただ、乃木将軍の思い込みによる極端な作戦が発案された場合、八原高級参謀を中心にして、参謀達が主導権をとり修正することになると思います。(ウツボ)なるほど。(サヨリ)これはあくまで仮定の話で、それに私の個人的な思いつきの意見ですから、あまり真剣に受け取られると、恐縮します。(ウツボ)ハハハ、確かに。でも、実際のところ、日露戦争での乃木大将の作戦家としての評価は分かれているので、サヨリさんの話も納得できますよ。(カモメ)では、沖縄戦の首里の地下にある洞窟の中の軍司令部の話に戻りましょうか。少しずつではあるが、砲声が日ごとに首里に近づき、やがて機関銃声まで、僅かに聞こえ始めたのです。さらに、敵の迫撃砲弾が首里の山をドドッと水をかけるように落ち始めました。(ウツボ)そのような状況で朝の寝起きは、もの悲しく、頼りない気持ちは実に名状しがたいものだった。(サヨリ)八原大佐は「目が覚めたときに、この呪わしいドドッという音が聞こえてくると、地獄の底に叩き込まれるような無力感におそわれた」と記していますね。(ウツボ)だが、いつしか、洞窟内の将兵の悲壮な緊張感は、日ごとに激化する戦況とは反対に緩和され、慢性不感症となった。軍司令部内は、のんびりした、鈍感ともとれる空気さえ流れ始めた。(カモメ)日頃、豪放磊落、強酒高論を特色とする参謀・木村中佐が、平素のそれとは似もつかず、仏書を手にするようになったのです。時には声を上げて読誦するようになりました。(サヨリ)若い参謀達が、辛気臭く思い、せめて読誦だけ早めてほしいと木村中佐に抗議しましたが、木村中佐は、争うこともせず、そして仏書は手放さなかったそうです。