テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:阿南陸軍大臣の自刃
〈ウツボ)ところで宮城事件は昭和20年8月14日の夜12時に椎崎中佐、畑中少佐らが近衛師団を訪れ、師団長、森赳中将に決起を促したが果たせず師団長を殺害し、偽の師団命令を出し、第二連隊に出動命令を出し、宮城を占拠したんだね。
(カモメ)概略はそうだね。殺害された森師団長について、その人柄を表す、話がある。「一死大罪を謝す」(新潮社)によると、有末精三の話として、8月14日の朝、参謀本部第二部長の有末精三中将の部屋に森中将が来た。 (ウツボ)森と有末は士官学校時代からの友人だね。 (カモメ)そうだ。その時森は有末に「お前、皇太子殿下に嘘を言ったな。勝つと申し上げたそうだが、負けたじゃないか」と言い、そのあと「死ね、とにかく早く死ね」と言った。 (ウツボ)今の我々の常識からは考えられない言葉だが、当時の状況としては、高級軍人は敗戦の責任を感じていて、皆死ぬことを考えていたんだね。 (カモメ)そのあと森師団長は第一部長の宮崎周一中将の部屋にも行き、同じ様に「死ね」と言ったそうだ。森師団長の去った後、有末と宮崎はお互いに第三部長の磯矢中将も含めて「死ぬ時は三人一緒に死のう」と語り合った。 (ウツボ)降伏となれば当時の状況から参謀本部の三人の部長が自決するのは当然という気持ちであったという訳だ。 (カモメ)敗戦というものは軍人にそれほどの重圧があった。 (ウツボ)三井侍従が御文庫に行き、天皇に宮城が占拠された事を伝えると、天皇は「クーデターか?」と言われた。そして、しばらく考えられて、「兵を庭へ集めるがよい。私が出て行ってじかに兵を諭そう。兵に私の心を言ってきかせよう」と言われた。そのうちに東部軍司令官の田中静壱大将が宮城に着き、近衛連隊の兵は宮城を出て行った。首謀者は自決した。 (カモメ)この頃の阿南陸軍大臣の心境と対応した行動について話しておこう。「完本・太平洋戦争(4)」(文春文庫)によると、阿南は竹を割ったような真直ぐな性格であったから、謀略の意図から抗戦を主張したとは考えたくないが、抗戦幕僚を頭から押さえつけて、ポツダム宣言を無条件で受け入れる態度を執ったなら、阿南は生きてはいられなかった。殺されるのは彼自身介意しないとしても、そのあとはクーデターである。そうなれば陸軍は天皇の御意図に反する勢いをなすかもしれない。そこで陸相として頑張るだけ頑張った。 (ウツボ)そこだが、「最後の参謀総長・梅津美治郎」(芙蓉書房)の中で、阿南と陸士同期生で終戦まで親交があった鈴木内閣の国務大臣、安井藤治中将は昭和34年8月14日の阿南会の挨拶で次のように述べている。「それでも陸軍大臣としては、先ほどいうごとく、多数の軍隊を押さえていくために、尽くすべきところは、どこまでも尽くしたというその手を打たねばならぬ。そこに阿南大将の特に苦心したところがあったんじゃないかと思います」と。推察だが、同様な意見だね。 (カモメ)「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で岩田正孝氏(元陸軍中佐・井田正孝氏)は「角田房子女史は、その著『一死大罪を謝す』のあとがきのなかでに、戦争終末期の阿南陸相の心境ばかりは不明というほかわないと、嘆いているが、私に言わせれば、角田という著者は何という愚かな人かなと思わずにはおられない。あまりにも簡単明瞭であるがゆえに、かえって見破れなかったのではあるまいか。大臣就任以来、とくに終戦時における陸相の心境は、国体護持の一念あるのみであった」と述べている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.09.26 17:54:29
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