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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2009.10.23
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カテゴリ:沖縄玉砕戦
(カモメ)昭和二十年三月十七日、硫黄島が玉砕しました。三月十九日、米国西岸、マリアナ、カロリン、マーシャル諸島、ハワイ、フィリピンから参加した史上空前の米軍の沖縄上陸軍がウルシイを出発、沖縄に向いました。

(ウツボ)この米軍の遠征部隊は、第五十六任務部隊と呼ばれ、軍制では第十軍(司令官・バックナー中将)だった。

(カモメ)そうですね。その編成は第二十四軍(陸軍部隊・ホッジ少将指揮の第七歩兵師団・第九十六歩兵師団、ブルース少将指揮の第七十七歩兵師団)、第三海兵軍団(水陸両用部隊・ゲイガー少将指揮の第一マリン師団・第六マリン師団)が攻撃の主力となりました。

(サヨリ)また、第二マリン師団が陽動作戦任務を担当し、船団約千五百隻がこの膨大な兵員と資材を運んだのですね。海上に千五百隻とは、頭の中で描けないくらい想像を絶する数ですね。

(ウツボ)すごい数だね。だけど、俺は、映画「レッドクリフ2」を観たけど、あの中ですごい数の船が出てきたけどね。それを思い出しました。

(サヨリ)あっ、そうですね。私も観ました。確かにすごい数の大船団でしたね。ジョン・ウー監督の作品は本当に面白いので、好きですね。

(ウツボ)ご主人と、お二人でよく映画に行かれるのですか?

(サヨリ)ええ、二人とも映画が大好きなので。「レッドクリフ2」も主人と観ました。

(ウツボ)いいですね。若いお二人が映画館で楽しく過ごされるのは。素敵な思い出になりますね。俺もジョン・ウー監督、好きですね。「フェイス/オフ」も観たけど、楽しめるように作ってある。

(カモメ)「ミッション・インポッシブル2」も「1」に負けないくらい面白かったですね。さて、沖縄戦ですけど、米軍の沖縄攻略部隊で海軍部隊は、第五艦隊、第二十四爆撃隊(空母集団)、第五十八機動部隊ですね。それに英国空母群が参加しました。

(ウツボ)そうだね。一方、この頃、沖縄の日本軍は戦機の切迫を感じていた。沖縄守備軍司令部は首里の地下壕に設置され、その入り口には「天の岩戸戦闘司令所」と標札が掲げられた。

(カモメ)これは長勇軍参謀長が自ら書いたものですね。皇軍は太平洋で敗退を続けたが、戦勢はこの沖縄において転換し、神風はここから吹き始めるとの指導精神を誇示したものですね。

(ウツボ)勇壮な長軍参謀長は、副官、新聞記者、多くの女性を身辺に取り巻き、はなばなしい態度だった。長軍参謀長は、愛用のスコッチウイスキーをちびりちびりやりながら、すこぶる上機嫌で、皆を勇気付け、喜ばすような気焔を掲げていた。

(サヨリ)牛島軍司令官はいつも静かで、一切を軍参謀長以下に委任し、自らは一巻の書を携えて、首里城下の軍司令部の洞窟に篭っていたそうですね。

(ウツボ)教育者タイプの牛島司令官は、作戦等は長軍参謀長と八原高級参謀に任せていた。牛島軍司令官の考えは、すべて自分が采配をふるうより、それぞれの専門家にやらせたほうが、うまくいく、というものだった。そういう人だった。

(カモメ)それにしても、作戦中に洞窟に閉じこもって読書三昧とは、軍司令官が。そのような軍司令官はあまりいなかったのではありませんか?

(ウツボ)作戦中といっても、まだ米軍が攻撃してくる前の話だろう。だが、軍司令官としては異端の人だったね。例えば硫黄島の指揮官、栗林忠道中将(陸士二六・陸大三五次席)は作戦のエキスパートで、米国駐在の経験もあり、米国を熟知していたので、防衛と、作戦は、自ら陣頭指揮を行った。

(サヨリ)でも、牛島軍司令官は、作戦はともかく、沖縄住民を保護する、様々な対策を指示していますね。例えば、輸送船で本国への住民疎開や、戦禍に巻き込まないため、沖縄北部への住民移動など。

(ウツボ)そうだね。まさに教育者タイプの人の特徴で、人道的見地からの対策には非常に積極的だった。

(カモメ)このような軍司令部の雰囲気のうちに、アメリカ軍が上陸を開始し、沖縄玉砕戦の序幕は切って落とされました。

(ウツボ)「雑学・太平洋戦争の真実」(佐治芳彦・日東書院)によると、昭和二十年三月二十三日、米機動部隊の艦載機約一〇〇〇機が沖縄と南大東島に来襲し、戦艦十隻を含む約四十隻の軍艦が沖縄本沖に接近して、艦砲射撃を行った。翌二十四日も砲爆撃が行われた。

(カモメ)三月二十六日午前九時、米軍第七十七師団が沖縄の慶良間列島に上陸しました。次に渡嘉敷、慶留間、阿嘉の各島にも侵攻しました。

(ウツボ)これに対して、日本側の航空機は三月二十八日に陸軍機二十五機が出動し、上陸地点を爆撃した。また、二十六日から二十八日にかけて、台湾から特攻機四十五機、爆撃機十七機が出動した。

(カモメ)三月二十八日には、渡嘉敷島で住民三二九人が守備隊の命令で集団自決しました。

(ウツボ)四月一日午前四時五分、米軍は沖縄本島の中部西海岸に上陸を開始した。歩兵二個師団と海兵二個師団の約五万人が無血上陸をした。午前五時半頃だった。日本軍の抵抗は全くなかった。

(サヨリ)「昭和日本史5・太平洋戦争後期」(暁教育図書)によると、アメリカ軍の主力は、第五艦隊司令長官・スプルアンス提督が率いる中部太平洋機動部隊で、陸・海・空海兵隊の合同部隊でした。

(ウツボ)機動部隊は、飛行機はもちろん、航空母艦、臼砲艦隊、掃海艇、魚雷艇、戦艦、巡洋艦、駆逐艦など、ありとあらゆる火器を総動員して上陸部隊の支援にあたった。

(サヨリ)これまでの上陸作戦では実現しなかった巨大な規模で、地上と海上と空中の全戦力を集中統合したのですね。これがアメリカ軍の沖縄作戦の特色ですね。

(ウツボ)そうだね。沖縄上陸部隊は、バックナー中将が率いる陸軍の第十軍で、配下にホッジ少将指揮の第二十四陸軍(レイテ島攻略部隊)と、ガイガー少将指揮の第三海兵隊(グアム島・ぺリリュー島攻略部隊)だった。

(カモメ)沖縄攻略作戦に投入された連合国軍の兵力は、当初十八万三千人でしたが、五月三十一日には二十三万八千六百六十九人に増えました。支援部隊も含めると総兵力は五十万人以上でした。

(サヨリ)この巨大な軍団が、一千五百隻余の艦船に分乗して一斉に沖縄に殺到したのですね。

(ウツボ)これに対して日本側の沖縄守備軍の兵力は、防衛庁戦史室の記録では、アメリカ軍が上陸する直前の沖縄本島、および周辺離島の兵力は、陸軍が約八万六千四百人、海軍が約一万人、沖縄現地で動員された防衛隊員や学生隊員が約二万人いた。合計十一万六千人だった。







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最終更新日  2015.08.14 22:06:45


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