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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2010.05.28
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カテゴリ:ソロモン海戦
(カモメ)西田大佐を予備役に編入した、その理由として嶋田海相は次の点を指摘しました。「艦長として、艦の最後を見届けていないのは、浅慮であり、艦長たる任をまっとうしていない」「比叡からの退艦ぶりは武人らしくなく、心にひるむものがあったことは、免れ得ない」。

(ウツボ)これが、海軍首脳の西田艦長に対する評価だった。退艦の経過を無視した、非情極まりない烙印だった。卑怯者の汚名だった。

(カモメ)この点について、西田大佐は、戦中も、戦後も沈黙を通し、一切弁明しなかったですね。

(ウツボ)そうだね。だが、西田大佐の予備役編入について、山本五十六連合艦隊司令長官は、撤回を求めるため、わざわざ宇垣参謀長を派遣して、嶋田大臣に交渉したんだ。だが、嶋田大臣は一度決まったものは変更できないと拒否した。

(カモメ)もともと、西田大佐は、兵学校同期の島本久五郎大佐、一宮義之大佐と同期のトップを切って海軍少将昇進の内命が降り、新聞発表されていたのですね。

(ウツボ)そうなんだ。内命は出ていた。だが、島本大佐と一宮大佐は海軍少将に昇進したが、西田大佐の昇進は取り消された。

(カモメ)西田大佐は兵庫県龍野市生まれで、当時は郷土の誇りでしたね。「太平洋戦争海藻録」(岩崎剛二・光人社)によると、西田は子供の頃から神童といわれていました。西田は、明治四十二年、龍野中学に入学しましたが、成績は一番でした。

(ウツボ)龍野中学の同級生には、後に「哲学ノート」などで哲学者として名をなした三木清がいた。西田と三木清は常に成績でトップ争いをしたが、始終トップを占めたのは西田だった。

(カモメ)三木清は、反戦的活動で、昭和二十年逮捕され、終戦後の同年九月二十六日、豊多摩刑務所内で病気のため突然、死にましたね。

(ウツボ)そうだね。西田は大正五年十一月に海軍兵学校を卒業したが、ハンモックナンバー(卒業成績)は九十五名中、三番で恩賜だった。

(カモメ)西田が海軍大学校を優等で卒業し恩賜の軍刀を拝受したときも、地元新聞に「再び長剣を拝受す、西田海軍少佐、海軍大学を優等で卒業」のタイトルで写真付で記事が出ました。「西田少佐は陸の田中中佐とともに、郷土龍野が生んだ逸材である」とも。

(ウツボ)陸の田中中佐とは、終戦時第十二方面軍司令官だった田中静壱陸軍大将(陸士一九・陸大二八恩賜)のことだね。田中中佐も龍野中学校出身だった。

(カモメ)田中大将の夫人の妹が西田大佐の妻、照子ですね。だから、田中大将と西田大佐は義兄弟の間柄です。だが、照子は昭和十二年二月病のために二男三女を残し亡くなりました。以後西田は死ぬまで独身を通したのです。

(ウツボ)海軍大学校を優等で卒業し恩賜の軍刀を拝受したとき、村人は西田の生家にかけつけ、祝辞を述べた。西田少佐の生家は農家であり、西田は天才といわれるほど勉強ができた。

(カモメ)龍野中学校四年のとき、西田は海軍兵学校を受験しました。西田は龍野中学校で成績は一番でした。だが、教師になることを進めていた両親は猛反対したのです。

(ウツボ)西田は官費の学校に入って貧乏な農家である両親の負担を軽くしたいという気持ちもあったが、日露戦争の広瀬武夫海軍中佐のような軍人になりたいと海軍に憧れていたのだね。

(カモメ)そうですね。こうして西田は、海軍兵学校を受験したものの、夏休みが過ぎても兵学校から合格通知は来ませんでした。一緒に受験した連中は、すでに不合格の連絡が来ていたのに、西田には何の連絡も来なかったのです。

(ウツボ)毎日辛抱強く郵便配達の来るのを待つ西田の姿を見て、たまりかねた両親は、仏壇に隠しておいた合格通知書を取り出した。合格通知書は十日前に届いていたが、海軍兵学校をあきらめさせようと両親が隠していた。

(カモメ)父はあきらめ顔で「海軍に入るからには、郷土の名を汚さないように、立派な武人になれ」と言いました。この猛反対した父の励ましの言葉が西田の頭に深く刻み込まれていました。

(ウツボ)さて、ソロモン海戦、戦艦比叡自沈の話に戻ろう。戦艦比叡自沈後、西田大佐は横須賀鎮守府付となり、横浜の自宅に帰った。そして昭和十八年三月二十日、予備役に編入された。同時に即日充員招集され、第一線とは程遠い、裏方の中国福建省のアモイ海軍武官に任命された。

(カモメ)横須賀鎮守府長官・平田昇中将(海兵三四・海大一八)から海軍武官の辞令をもらった西田大佐は、挨拶まわりのため水交社に向ったのです。

(ウツボ)そこで、たまたま、傷が治って退院したばかりの阿部中将に出会った。阿部中将もまた、西田同様に、詰め腹を切らされて、予備役に編入されていた。阿部中将は沈痛な表情で、西田大佐に次の様に言った。

(カモメ)読んでみます。「君が予備役になったと知った時、わしは目の前が真っ暗になったよ。わしが拙劣な指揮を執ったばかりに、比叡をなくし、君の将来まで台無しにしてしまった。わしはもう先がないから、どのようにされようとかまわないが、君はちがう。海兵、海大のクラスヘッドとして、早くから嘱目され、やがては、提督として連合艦隊の総指揮をとるべく、約束された人なのだ。その君が、わしと組んだばかりに、わしは、皺腹掻き切ってわびても、それを償うことはできないだろう」

(ウツボ)温厚で一徹な阿部中将の言葉に、西田大佐は次の様に答えた。

(カモメ)読みます。「司令官! 何をおっしゃるのです。私こそ、司令官を補佐する立場にありながら、全うすることができず、あんな結果を招いてしまったのです。私が予備役に追いやられたのも、当然の報いかもしれません。しかし、悔いは残ります。部下の遺体を収容することもできず、比叡を放棄してきたことを、私は心の重みとして、生きる限りそれを背負っていこうと思っております。そうすること以外にソロモンの海に眠る部下の魂を鎮めることはできないのです」

(ウツボ)その後の西田大佐の職は、裏方街道ばかりだった。輸送任務の第二五六海軍航空隊司令のあと、昭和二十年五月、福岡地方海軍人事部長に転じ終戦を迎えた。








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最終更新日  2015.08.09 22:41:59


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