テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:戦争と文学・陸軍
(ウツボ)小林秀雄氏の太平洋戦争開戦当時の心境を、続けて見てみよう。
(カモメ)読んでみます。「あれやこれやと曖昧模糊とした空想で頭を一杯にしている。その為に僕等の空費した時間は莫大なものであろうと思われる」 (ウツボ)「それが、『戦闘状態に入れり』のたった一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言聞かす様な思いであった」 (カモメ)「何時にない清清しい気持ちで上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅奉読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立していた」 (ウツボ)「目頭は熱し、心は静かであった。畏れ多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた」 (カモメ)「やはり僕等には、日本国民であるという自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失ったりする様々な種類の自信とは全く性質の異なったものである」 (ウツボ)「得たり失ったりするにはあまり大きく当たり前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自身である。僕は、爽やかな気持ちで、そんな事を考えながら街を歩いた」 (カモメ)「やがて、真珠湾攻撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。こんな事を考えた。僕等は皆驚いているのだ」 (ウツボ)「まるで馬鹿の様に、子どもの様に驚いているのだ。だが、誰が本当に驚くことができるだろうか。何故なら、僕等の経験や知識にとっては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事が成し遂げられたということは動かせぬではないか」 (カモメ)「名人の至芸と少しも異なるところはあるまい。名人の至芸に驚嘆できるのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ」 (ウツボ)「ところが、今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現われた様なものである。偉大なる専門家とみじめな素人、僕はそういう印象を得た」。 (カモメ)思索家、小林秀雄が自分自身、真珠湾攻撃の大戦果に驚き、言いようのない感動を覚えて、海軍の奇襲作戦を「至芸」とまで評価していますね。 (ウツボ)大戦果の国民の感動は、はるかに大きかった。太平洋戦争開戦直後、日本のほとんどすべての詩人、歌人、そして俳人までが、競い合って戦争をうたい、国民の感動を伝え、戦争の勝利を歌った。例えば、当時の新聞に発表されたものから見ていくと、斉藤茂吉は次のような短歌を発表している。 (カモメ)「何なれや心おごれる老大の耄碌(もうろく)国を撃ちてしやまん」。 (ウツボ)会津八一(明治十四年新潟県生まれ・美術史家・歌人)は次のような短歌を発表している。 (カモメ)「ますらをやひとたびたてばイギリスのしこのくろふねみづきはてつも」。 (ウツボ)土屋文明(明治二十三年群馬県生まれ・東京帝国大学文学部哲学科卒・国文学者・歌人)は次のような短歌を発表している。 (カモメ)「ボルネオに迫ると聞けば心をどる白人邪(よこしま)に此所を占めにき」。 (ウツボ)これらの当時の著名な歌人の作品が示しているように、単に宣戦の大詔に感激し、天皇のため祖国のため戦いの決意を新たにする、というような皇国御用歌人的な受身の発想でないことがわかる。 (カモメ)これらの作品は白人種の東洋支配に対する積年の恨みを、今こそはらすのだという積極的主体的な興奮が見られるのですね。 (ウツボ)そうだね。このような発想は明治時代に育った文学者に特に強い。若い頃から培われて来た民族主義の血が、米英との戦争によって再びたぎりはじめたといえる。 (カモメ)引き続き、当時の文学者たちが、真珠湾攻撃やシンガポール陥落について、具体的に現した詩や所感を見ていきましょう。 (ウツボ)そうだね、まず、真珠湾攻撃について見てみよう。「昭和戦争文学全集4太平洋開戦」(集英社)によると、室生犀星は「十二月八日」の題で、次のような詩を発表している。 (カモメ)「何かを言いあらわそうとする者 そして言いあらわせない者 よろこびの大きさに打たれて ここで凝乎として喜んでいる者 よろこび過ぎて言葉を失った瞬間 人ははじめて自分の我欲をなくし 何とかして 偉大な喜びをあらわしたいとあせる(以下略)」。 (ウツボ)真珠湾攻撃の大戦果を知った日本国民の大喜びする姿を、象徴的に表現した詩だが、見境なく手放しで喜ぶ当時の人々の様子が浮かんでくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.07.23 21:43:19
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