ある晩、田中功起君と喋ったきろく
田中功起くんの新しいプロジェクト「言葉にする」がついに始動。田中君がいま話したい人と話し、それをそのままポッドキャストで公開するというもの。記念すべき第一回に僕を呼んでくれました。長いけど、ぜひどうぞ。リンク先で田中君も言うように、話した内容が活字媒体に載る場合、どうしても編集の介入が入ってくる(僕はそもそも活字媒体に載った経験が少ないのであれなんだけども)。記事として成立させるため、あるいは会話の流れをスムーズにするために、言ってないことを言ったようにされたり、言ったことの内容が変わってたり、「濃度が薄められて」たりすることもあるだろう(泣く泣くであっても)。これは活字になることの悪い点(少なくとも話し手にとって)だろうけど、でも同時に、ふつうは話し手による校正も許される。つまり、言ってないことを自分で加えたり(収録時に思い付かなかったけどぜひ伝えたいこととか)、もっとわかりやすい言い方に変えたりすることができる。完全に自由にはできないとはいえ、話し手は「自分の言ったこと」として掲載される言葉に責任を持たなければならないからね。活字媒体は、良くも悪くも改変可能ってこと。でも今回のように、録音したものをそのまま流すっていうのは、編集者による介入がないかわりに、自分で校正することもできない。改変不可能。恥ずかしいことを言ったらそれはすべて自分の責任になる。それは、ちょっと、こわい。でもそのこわさを引き受けて、開き直って自分のダメさも含めてさらすつもりで、がんばった…気がする。もちろんもっともっと突っ込めた点はたくさんあるにしても。といいつつ、その「こわさ」のせいもあって、今回の音声はまだ半分くらいしか聞き直せてないので、曖昧な記憶からそう思うだけなんだけれども(酔ってたし)。でも、現実から目をそむけてはならん。聞き直そう。で、聞き直してまた思うことがあったら、ここに書こうかと思います。それまで、みんなも聞いてみよう!!それにしても、たとえばこの音声をヘッドフォンで聞く人がいたとすれば、僕の声がその人の頭の中に響くことになるんだなあ。不思議な感じ。そして、僕と田中くんにとっては、これを収録したあの日あの場所の手触りがこの音声に付随してるんだけど、聞く人にとってはそうではないんだなあ。特定の日時にrecordされたものが、不特定の日時に開かれるんだなあ。あたりまえか。今回のトークとも関係するけど、「世界」と「身体」についてちょっと考えた。どちらも、誰もが知っている普遍的な物事で、恣意的なコントロールを越えた事象=偶然=他者性に満ちているんだけど、「場所」が違うんだな。「世界」は「身体」を包含するし、「身体」は「世界」を開くわけで、重なっているんだけれども。いや、そんなに単純化しちゃいかんか。いずれにせよ、やっとこさっとこ、最近、自分がやることの核が見えてきた気がする。それにともなって、作品プランもけっこうどんどん出てきてる。あとはやらねば。