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俵屋宗達、風神雷神図屏風を見た。
その画題で、宗達、光琳、抱一、基一の4世代が一同に会していた。 (宗達が開祖なのに、何故、琳派なのだろう、 彼が組織化=お家化したということなのだろうか) 正直、小・中・高の美術や、 歴史の教科書でしか、見たことのなかった絵画。 なんの価値があるのか、さっぱり、わからない自分ではあったが、 雨曇りである、とういうのに、 上野の美術館は長蛇の列。 日本人って、意外に真面目なのね。 前、来たときも、この美術館に賑わってたし。 同伴者、ヒキダシ氏は、顔に似合わず日本美術が好きで、 時折、わたしは、上野に随行するのだが、 俵屋、どうやら、一流らしい。 画面から、風神雷神が、はみだしている宗達。 風神雷神に、エフェクトの掛かった、洗練した光琳。 焼酎の入った現在は、違いの思い出せない抱一。 水墨画的、幽玄を取り入れ、上三代より、スペクタクルな襖使いで、 ハイビジョンを思わせる基一。 ううん、これが、琳派、というものなのか。 知らなかった。 教科書で、見てるだけでは、 ただの辛気臭い、土俗宗教的、神話図絵の、 雷様イラストとしか、思えていなかったが、 太平の江戸時代、同じ画題で、四代に渡って、 同じ画題で、頂点を極めた、師弟関係が存続していた。 それが、現物として、21世紀東京・上野に、光臨している。 それは、単純な驚きだった。 だが、本当に、驚いたのは、 起承転結の承で、突然、やってきたクライマックス、 風神雷神図屏風にではなく、 宗達の、「白象図杉戸」の「象」や、光琳の竹梅図屏風や、 乾山の様々なプロダクトデザイン作品群だ。 宗達の「象」は、「目が狂っている」。 白い象なんて、わたしは、見たことがないのに、 図画として描かれている。 図画ではあるが、 近くから見ると、木目に刻まれた、彫刻に、 見えたりもしたが、この「象が、醸し出す仮定世界」へ 移行してしまうと、かわいらしさと残虐さが同居した、 「狂った目」と「狂暴な牙」によって、 襖に閉じ込められた人間がいた場合、 これ以上ない残虐な暴力によって、殺戮されたしまうことが、 約束されたがごとき、恐怖と恍惚が、存在する。 まんが「ねこじる」の世界が体現されている。 光琳の描いた、「竹梅図屏風」には、 簡素な竹、それ以外は、捨象したGOLDENな余白、 何がいいんだか、わからないけど、見てるうちに、 その何もない余白から、彼岸もしくは、仏教土もしくは、 非現実もしくは、俳諧的世界もしくは、 いとをかしもしくは、 凝縮した異次元を、体感させてくれる。 抱一の、花の屏風絵、花がマル、茎が垂線となり、 五線譜のさざ波のごとき、意匠的屏風絵画、 乾山の、箱物プロダクトデザイン、 順々と見ていくうちに、 こいつらは、埃に黴れた日本という名のローカル巨匠ではなく、 江戸幕府という、侍的王権文化の生み出した、 超VIPデザイナーであることに、結論が達した。 ルイヴィトンが、数十万円で、手に入る庶民のブランドなら、 琳派は、江戸時代、庶民が見ることを許されなかった王族=将軍家のブランドだ。 徳川ブランド。 ヒキダシ氏は、琳派展示を見ながら、盛んに、 ROCKだ、ROCKだ、 と興奮している。 戦国時代に端を発した狩野派の、 殺意逡巡たる3DCGな躍動的虎絵画に比べると、 琳派は、解説文のキーワード「意匠化」すなわち、 デザインと化した、記号化、抽象化、具象にマンガ性を混入するダリ化、 まとまっててクールならいいじゃん的力技による多次元混入型の、 ポップアート。 しかも、余白が、 俳句や、彼岸を感じさせる日本型「いとをかし」系。 絵画的伝統芸能、絵画の歌舞伎、いや、それ以上に、 複雑に見せかけたシンプルな力、 意匠という名のブランド力を、 琳派の展示から、受けたのだった。 そして、隣で、やたらと、 ROCKだ、シュールレアリズムだと呟くヒキダシ氏に、 「ロックの定義ってなんすか」と訊いてみると、 「FREE YOUR MIND」だった。 自由につくるには、それなりの、フォーマットの身体化や、 その乗り越えが、必要だとは思うが、 音楽だと思っていたロックが、 「FREEDOM」というコンセプトによって、 音楽だけでなく、別ジャンルをも、包摂しうることに、 面白さを感じるとともに、御徒町の安酒で、 境界を危うくする水墨的世界へと、渡航するも、 幾何学的に、普通に、おうちへ帰った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 22, 2008 12:56:36 PM
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