カテゴリ:幸福論
判官(ほうがん)びいきしないの事。
判官びいきというのは、日本人は好きですね。 どうもついつい弱いものに同情してしまい、 しかもそれが正義だと思ってしまう。 もちろん「つよさ」だけがすべてではないですが、 自分のよわさを判官びいきしてしまうと、 抜け出せるものも抜け出せなくなります。 病気の原理のひとつとして、「甘え」があげられます。 つまり表面上、意識のうえでは「治りたい」と言っているのですが、 無意識のうちに「治らないほうが得」という 考えがある場合です。 たとえば腹が痛くなれば、会社(学校)にいかなくてすむ、とか 風邪を引くとやさしくされるので、風邪を引くとか、 そういう潜在意識のはたらきがあるのです。 面白いことに交通事故でムチウチになった人などは、 「たくさん保険金が下りるといいな」と 思えば思うほど、症状がひどくなったりするそうです。 そういうことは、西洋医学では認められないのかもしれませんが、 実際の事例を見ていると、 やはり「甘え」によって病気が悪化する、 もしくは治りが悪いということはあるようです。 ちょっと話がそれましたが、 じぶんのことを「よわいもの」「被害者」と 思ってはならないということです。 言い換えれば「悲劇のヒーロー(ヒロイン)」ですね。 「オレは、こんなに努力した。 しかし社会の荒波には勝てなかった」とか 「あたしはこんなに耐えている。 なのになぜ、こんな仕打ちを受けるの・・・?」とか。 じぶんをそのように「被害者」に見立てていくと、 他人をあなたを「被害者」としてとらえます。 そうなると悲惨です。 「哀れむ人」と「哀れまれる人」という関係になってしまうのです。 「かわいそうねえ」という ひどく失礼なことばを言われるハメになるのです。 「哀れまれる人」になってしまうと、 それは病気と同じく、 抜け出すことができません。 潜在意識的に、「オレはなんてかわいそうなんだ」と 考えてしまい、そして恐ろしいことに、 その状態が心地よくなっていくのです。 けっきょく「哀れむ人」も「哀れまれる人」も 自立・自己責任の原則を忘れているのです。 じぶんのことは、じぶんで背負う。 それが幸福の第一歩であり、ゴールでもあるのです。 弱者に甘くない考え方は 冷酷と思われるかもしれません。 しかし実際には、 「判官びいきしてもらいたい人」に対しては、 「突きはなす」ということが なによりの優しさなのです。 「弱い人」「被害者」を甘やかすと、 それが心地よいので、抜け出る気もなくなります。 「じぶんは優しい人だ」ということを アピールするために見せかけだけの同情をするくらいなら、 「テメエのけつはテメエで拭きやがれ!」 と怒鳴ってあげたほうがよっぽどタメになるのです。 ぼくは「哀れまれる人」になるくらいなら、 「羨まれる人」になりたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年11月20日 06時45分14秒
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