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カテゴリ:続 日本100名城
延岡城の天守台から三ノ丸経由駐車場へ、この後国道10号を北上大分県へ向かう。
11月17日(水) 12:25 天守台から南方向の延岡市街地。 大瀬川の南側にある旭化成のベンベルグ工場煙突。遠く鞍掛鼻であろうか。 ![]() 天守台の西側に聳える木 ![]() 片隅に記念碑が建つが ![]() 天守台から下ることに ![]() この後、天守台から三階櫓へと進む ![]() 通路には夜の照明灯 ![]() 三階櫓跡地 延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物だった。 ![]() 三階櫓は、関東周辺の譜代大名を中心に造られた「天守代用三階櫓」と同様、延岡城の天守とみ なされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物でした。櫓の一階部分は、東西5間(約 10m)、南北6間(約12m)の広さで、高さは、土台下から7間5尺9寸(約15.6m)ありました。 明暦元年(1655)有馬康純公の修築により完成しましたが、天和3年(1683)(一説に天和2年)に武 家屋敷からの出火で焼失し、以後再建されることはなく、現在は、櫓台の石垣が当時の姿のまま 残っています。 ![]() 三階櫓跡に建つ、「後藤勇吉之碑」 ![]() この後藤勇吉之碑は1934(昭和9)年に建立されたもので、太平洋に輝く太陽と、勇吉が果たす ことのできなかった太平洋横断無着陸飛行の姿を彫刻したレリーフがはめ込まれている。 ![]() 碑は1934(昭和9)年に建立されたもので古い。 また漢字とカタカナで鋳だされているので解りずらいためネットから抜粋。 後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市南町に生まれ、延岡中学校を卒業後上京、飛行士として 修練を重ねた。 大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行 を行った。この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。以来、航空会の寵児(ち ょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。 昭和2年太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。 翌3年2月29日午前8時大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳) 上空で墜落、死亡した。33歳の壮年であった。 ![]() 旅友は昨夜の宴会中に旧友へ電話、その時通じず相手から電話があり ”ながら電話”。 紅葉には少し早かったようだ。 ![]() 後方の石垣は、三階櫓跡。 ![]() 吹上坂(ふきあげざか) Fukiageーzaka Slope 吹上坂は、三ノ丸から本丸へと続くつづら折れの通路で、有馬氏時代に描かれた「有馬家中延岡 城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)に、この吹上坂は描かれています。以降、三浦氏、牧野 氏、内藤氏時代に描かれた絵図でも吹上坂は確認することができます。 この場所は、延岡城の天守とみなされた三階櫓跡の西側直下にあたり、三階櫓跡の岩盤掘削面と 石垣面とを上手く組み合わせて通路の壁面を構成しています。石垣は、見栄えを重視したと考え られ、一定の大きさに揃えた割石を用い、横目地の通る「布積み」で積まれています。 また石面は、ノミによる「ハツリ」が施され平面的に整えられています。吹上坂の石垣は、城内 の他の石垣とは違った美しさが見られ、有馬家により大改修されたと考えられます。 ![]() つづら折りの吹上坂を三ノ丸へ下る。 ![]() 吹上坂を下り、三ノ丸跡 ![]() 三ノ丸に庭園があったのか。 ![]() 三ノ丸跡地 明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図・・・・・ よると、この位置が三の丸となっている。 ![]() 三ノ丸跡地を振り返る、旅友は珍しく私の後から。 紅葉はじめの木を見上げる旅友。 ![]() 園路脇に「牧水歌碑」と。 ![]() 石垣の間に大きな樹の切断跡廻りに、黄色いツワブキが咲く。 ![]() 歌碑前広場 ![]() 歌碑前広場に建つ歌碑。 中央が牧水の歌碑 ![]() 歌碑には、 「なつかしき 城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」 牧水。 ![]() 若山牧水(1885 ~ 1928) 若山牧水(本名 繁)は、明治十八年八月二十四日、現在の宮崎県日向市東郷町坪谷に生まれました。 尋常小学校を終えると、延岡市の高等小学校に入り、新設された県立延岡中学校(現・県立延岡高 等学校)を卒業して、早稲田大学英文科に進みました。 延岡での八年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、歌人としての素養を培いました。 そして、若山繫が雅号を「牧水」としたまちが延岡です。 この歌は、昭和二年七月二十四日、台雲寺(北小路)で詠んだもので、昭和十年春、全国三番目の 牧水歌碑として建てられました。毎年、三月春分の日に歌碑まつりが行われます。 延岡市観光戦略課 ![]() 牧水の歌碑は、現在は全国で300基を超えているものと思われ、その数は他の歌人 を圧倒、断然トップを誇り、そのうち3分の1は宮崎県に集中している。 右隣に立つ古くから門下だった谷自路(次郎)の歌碑 「石の面に 樹々に冬日の 照り沁みて 凪ぎはてし庭に 山茶花の散る」 昭和27年(1952年)3月17日、建立。 ![]() 左隣に立つ古くから門下だった越智渓水(通規)の歌碑。 「家にゐて ものおもふことの 愚かさよ やまに来たれば 良き日なりけり」 昭和43年(1968年)7月21日、建立。 ![]() 広場の隅にツワブキが咲く。 ![]() 内藤家墓地を塀の上から覗き見る。 ![]() 延岡市のおすいマンホール蓋。 市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれてい る。のぼり猿は、延岡藩の武士の妻たちが手内職として作り始めたとされ、 ハナショウブを描 いた幟が風を受けると張り子の猿が上り下りする仕組みで、5月の節句に子どもの健やかな成長 と五穀豊穣を願って、 鯉のぼりと一緒に庭先に立てるそうです。 ![]() 12:50 北城山街区公園の北駐車場へ下り立つ。 約1時間の延岡城散策であった。次の目的地はいよいよ今回最後の大分県下の城制覇だ。 この後今日明日で、佐伯城、臼杵城、中津城、角牟礼(つのむれ)城の四城。 駐車料金は、「駐車券無料処理機」で受付をしたので無料! ![]() 12:55 城山公園から、五ヶ瀬川を渡り国道218号(神話街道)を東へ進む。 カーナビは一般道優先で走る。 ![]() 国道10号と合流するこの昭和町交差点を左折して北上。 道路標識は大分まで 112km、宮崎まで 87km。 ![]() この後は、延岡駅前を通り一路国道10号を北上して佐伯市へ。 ![]() 国道10号は北川、日豊本線に沿って山間部へと北上、日向越隧道。 ![]() 左は日豊本線、国道10号の交通量は少なく、制限速度50km+15kmで北上。 前方に赤い看板「延岡学園高等学校」。 ![]() 13:06 前方の道路標識は「道の駅 北川はゆま 1km」、国道10号、326号。 道の駅 北川はゆまは、東九州自動車道北川インタ出口にある。 所在地:宮崎県延岡市北川町長井5751-1 ![]() 13:09 北川に架かる「川〇大橋」 ![]() 橋の親柱に、天狗?。 ![]() 13:24 国道10号は山間部へと進み、前方に日豊本線の陸橋。 ![]() もう50年前に大分へ長期出張時に、この日豊本線を利用して日南へ旅をしたことを思い出す。 その頃はまだ未電化で蒸気機関車であった。 ![]() 13:24 国道10号を独り舞台で走り、いよいよ今回最後の訪問地大分県へ入る。 ![]() ようこそ 大分へ Welcom to OITA ♨ 写真は「佐伯市 鶴御崎灯台」。 ![]() 対向車もなく、後方からも無く、一人旅。 このブログ作成時にわかったが、この辺りの東九州自動車道は無料区間になっている。 ![]() 13:25 国道10号と併行して日豊本線が走る、以前は重連の蒸気機関車が牽引。 この辺りの日豊本線は、大分県側の重岡駅から宗太郎駅を経て宮崎県側の市棚駅までの区間が、 一般に「宗太郎越え」と呼ばれる。急峻な山地の中を1000分の20の急勾配の鉄路が、合計37 のトンネルを抜けて続いている。 ![]() 13:27 カーナビは佐伯城への到着予定は、14:29、残り 31kmと。 残り31kmで所要時間1時間と予測。道路が空いているのでまだ早く着くであろうと思いながら。 ![]() 13:30 宗太郎隧道 坂道の上り下りとカーブが続く厳しい山越えの道路である。標高266 m。 近年、西側を走る国道326号が整備されて、実質的に国道10号のバイパスとして機能しているた め、この区間の交通量は少なくなっている。また、東九州自動車道のこの区間は、ずっと東側の 海沿いに建設されており、宗太郎峠付近は経由しない。 ![]() 宗太郎隧道を抜けてからは下り坂に。 国道10号に入ってから対向車もなくスピード違反に注意しながら運転。 昨年10月末に一時停止を怠り税金を納めているので追徴金もしたくなく、また3カ月無違反だと 減点2が1になるので。 ![]() 13:33 国道10号と日豊本線が交差 カメラをもった高齢者が撮影に訪れていたが。 ![]() ー 続く ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.01.16 03:00:06
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