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おじん0523のヒロ散歩

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2022.01.20
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カテゴリ:続 日本100名城

​​​​​​​​臼杵城のスタンプを頂き城内散策へ。
臼杵城はキリシタン大名大友宗麟により、臼杵湾に浮かぶ丹生島に永禄5年(1562年)に築かれ、
江戸時代は稲葉家が治める臼杵藩五万石の城として幾多の歴史を積み重ねてきました。
当時は海に囲まれた城でしたが、現在は埋立により陸続きになっています。
その城跡は現在臼杵公園として整備されており、春には約1,000の桜が咲き誇る県南有数の花見
スポットとなっています。

11月17日(水) 16:20
臼杵市観光交流プラザ前から、臼杵城を見上げる。
中央に復原された「大門櫓(だいもんやぐら)」、右に現存する「畳櫓(たたみやぐら)」。


臼杵城正面(空撮)
手前の橋は現存する石橋の古橋。古橋口から白い土塀が続く。鐙坂を登って右端奥の畳櫓(現存)
の前を通って左に曲がり、中央奥の大門をくぐると二の丸へ出る。


観光交流プラザ前に立つ像、
臼杵っ子の足元にフグ。


台座に、「臼杵っ子と 福呼ぶ一番魚(ふぐ)」。


臼杵城散策マップ
左下の黄色の矢印から城内へ登城。


古橋口から、大門櫓、畳櫓を見上げる。


内堀に架かる、古橋(ふるはし)。


古橋口と鐙坂(あぶみさか)
大友時代から登城路として使われていた道で、外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道で
す。馬の鐙に似ていることから、「鐙坂」と呼ばれました。
太田氏時代には内堀をまたぐ橋が掛けられ、稲葉氏時代に「古橋」と呼ばれていました。


古橋口から北側。


古橋口に立つ石灯籠。


左側に、「臼杵護国神社境内地」、鳥居には、「奉納 平成十年十月吉日」。


大分県指定史跡 臼杵城跡
臼杵城は弘治2年(1556)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。
臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を
生かして、この地を城郭にしたと考えられます。
大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏
が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって
支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により、卯寅口(うとのくち)門脇櫓、畳櫓以外
の建物はすべて破壊され、公園化されました。
現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。
                  臼杵市教育委員会

臼杵城下絵図 寛永13年 ~ 万治3年頃(1636 ~ 1660)      上が北側


臼杵城下絵図(幕末)
当初は海に囲まれた城でったが、三之丸の東側が埋立てされたようだ。


明治初期の臼杵城大手口


現在の臼杵市街地地図 
築城当時は海に囲まれた城であったが、現在は埋め立てられて陸続きになっている。  


古橋口から鳥居をくぐると、二の丸へはここから左に折れ狭い坂へと。


卯寅(うとの)稲荷神社の案内。


鐙 坂
外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道で、馬の鐙に似ていることから「鐙坂」と呼ばれた。
坂道の幅は1メートルそこそこであったか。


岩を掘り切って造った狭い坂道を振り返る。波打つ白塀と畳櫓。


岩を掘り切って造った狭い道を抜けると広い道に。


鳥居が建っている場所は「中門櫓跡」、建物は現存する「畳櫓」。
左には「中門跡」の石柱、中門の礎石。


畳櫓(たたみやぐら)
天保年間に再建された櫓で、1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造をしてい
ます。解体修理の際に、下見坂で隠された銃眼「隠し狭間」のあることがわかりました。
畳櫓の左側の石垣は、井楼櫓台石垣(せいろうやぐらだいいしがき)。


左側:井楼櫓台石垣、正面:畳櫓
井楼櫓台石垣の西面の高さは約四メートルと高い。


臼杵城の石垣 ー 井楼櫓台石垣
               大分県史跡 臼杵城跡
               臼杵市大字臼杵九三番地一
正面に見える石垣は、臼杵城二の丸西南端に築かれた、他の櫓に比べかなり規模が大きかった
井楼櫓の櫓台石垣です。西面石垣の高さは約四メートル、東面石垣の高さは約二メートルです。
この石垣の西南隅は鞘石垣(さやいしがき)という、二重の角を持つもので、臼杵城ではここだ
けにみられる特徴です。
この石垣の角に積まれた角石は、本丸の天守台石垣と同じように、大きさや積み方が不揃いで、
第二十二代当主 大友義統(宗麟の長男)が改易された後に入城した、福原直高か太田一吉の頃で
ある、1590年代に築造されたと考えられます。ここは臼杵城下を一望できる絶好の位置なので、
奥まった位置にある天守の代わりとして比較的早い時期に櫓が置かれたと思われます。
                     臼杵市教育委員会

稲葉氏の城郭改修
帯曲輪(おびぐるわ)
大友氏時代から太田時代(1556~1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に
面した入口から鐙坂を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこ
から上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。
稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三
之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と
枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境
に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪
と呼ばれるようになりました。また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙坂の登城口は
古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からです。 
畳櫓(たたみやぐら)
畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。
この櫓は正保年間(1644~1648)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763)の
大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764~1772)頃ではないかと推定されます。
「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする
説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。
                        臼杵市教育委員会 


臼杵城絵図(延宝4年=1676年)。

大門櫓(だいもんやぐら)
17世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、17世紀後半に二の丸
居館ができると玄関口のような存在になりました。平成12年に模擬復原建物が整備されました。
両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積(きっこうづみ)」です。


石段下から大門櫓を見上げる。
両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積(きっこうづみ)」です。
亀甲積とは、石材を六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの石垣の一種である。亀の甲羅の
模様に見えるためこう呼ばれる。力が均等に分散するため、崩れにくいが、江戸後期に低い石
垣に用いられた例のみである。沖縄のグスクでは、相方積みともいわれる。


大門櫓前から振り返る。


県指定史跡臼杵城跡 大門櫓
大門櫓は、稲葉氏入城直後の十七世紀初頭に建てられたもので、宝暦十三年(1763)の大火で焼
失した後、明和五年(1768)に再建され、明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容
を誇っていました。
復元にあたっては、現存する二基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、発掘調査の
写真などを参考にし、櫓門形式、二枚開、開戸、・・・・・中略・・・・・
この大門櫓復元を契機に、ここを訪れる方々が往時の臼杵城の雄姿をしのびつつ、この城郭史
跡の保護と城下町景観の保全についてなお一層の理解と関心を寄せていただくことを願ってや
みません。
                        臼杵市教育委員会


二の丸跡に建つ鳥居の扁額は、「臼杵護国神社」。


二の丸跡の南西隅にある、「井楼櫓跡(せいろうやぐらあと)」
こちら側の東面石垣の高さは約二メートルだが、登り口の西面の高さは約四メートルと高い。


井楼櫓跡にある、城下町(西方向)の眺望写真
左から、海添(かいぞえ)地区、二王座地区、平清水地区、町八町地区、祇園洲地区。


井楼櫓跡の上から北方向にある「大門櫓」。


同場所から、車を駐車している西側下の「臼杵市観光交流プラザ」を見下ろす。


南方向の山の中腹を走る東九州自動車道。


臼杵城の歴史(室町時代、安土・桃山時代、江戸時代)
弘治2年(1556)  この頃までに大友義鎮(よししげ)が丹生島に城を築く。
永禄6年(1563)  大友義鎮が出家し宗麟と名乗る。
天正6年(1578)  日向に出兵するが高城川の戦いで大敗。宗麟、キリスト教の洗礼を受ける。
天正8年(1580)  この頃、イエズス会修練院・聖堂が臼杵城下に建立される。
天正10年(1582)  宗麟、キリシタン大名大村純忠、有馬晴信らと共に少年遣欧使節をローマに
         派遣する。
天正14年(1586)  島津軍が臼杵に侵入。宗麟は、臼杵住民を臼杵城に避難させる。
天正15年(1587)  宗麟、津久見で没する(58歳)。
天正16年(1588)  臼杵城及び城下が全焼する。宗麟死後、臼杵城は府内城(長男義統が城主)の
         支城となる。
文禄3年(1594)  福原直高、臼杵城主となる。はじめて天守櫓建てられる。
慶長2年(1597)  太田一吉、臼杵城主となる。また、城郭の大改修を行う。この時期に祇園洲
         「三の丸」となる。
慶長5年(1600)  稲葉貞通(さだみち)、美濃国郡上八幡城主から臼杵城主となる。


臼杵城の歴史(江戸時代)
慶長8年(1603)  稲葉典通(のりみち)、二代臼杵城主となる。
寛永4年(1627)  一通(かずみち)、三代臼杵城主となる。
寛永18年(1641)  信通(のぶみち)、四代臼杵城主となる。
延宝元年(1673)   景通(かげみち)、五代臼杵城主となる。
元禄7年(1694)  知通(ともみち)、六代臼杵城主となる。
宝永3年(1706)  恒通(つねみち)、七代臼杵城主となる。
享保5年(1720)  董通(まさみち)、八代臼杵城主となる。
元文2年(1737)  泰通(やすみち)、九代臼杵城主となる。

臼杵城の歴史(江戸時代末期から明治時代)
明和5年(1768)  弘通(ひろみち)、 十代臼杵城主となる。
寛政12年(1800)  雍通(てるみち)、十一代臼杵城主となる。
文政3年(1820)  尊通(たかみち)、十二代臼杵城主となる。 
文政4年(1821)  幾通(ちかみち)、十三代臼杵城主となる。
弘化元年(1844)   観通(あきみち)、十四代臼杵城主となる。
文久2年(1862)  久通(ひさみち)、十五代臼杵城主となる。
明治2年(1869)  各藩、版籍奉還を行う。
明治4年(1871)  廃藩置県により、臼杵藩が臼杵県となる。


夕日に映えるピンクのこの花は?。

二之丸(にのまる)
江戸時代、空堀から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。
臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではあり
ません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557)、天正16年(1588)の火災で焼けた土
層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きでは
なかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。また、その層からは景徳鎮(中
国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城
主居館が存在していたことが伺えます。
大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城します。
これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイル
へと変化していったと考えられます。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡から転封してきた稲葉氏によって、
さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備されました。
その後、延宝4年(1676)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してから
は、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。
                       臼杵市教育委員会


二之丸御殿「指図」(西暦1750年頃)
二之丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図
から分かります。そして、その空間は「表」と「奥」に分けられていました。
表空間は「大書院」「小書院」「御居間」等の大部屋が見えます。これらは政務遂行や年中行事
などの儀礼に使われた空間と考えられます。「御居間」に近づくほど、より限られた身分の者し
か出入りできなかったと考えられます。
奥空間には「御内所」と呼ばれる藩主らの部屋があります。藩主とその家族の日常生活の場です。
「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見えます。
御殿の奥には、池と築山、石の輪橋などを配した庭がありました。また、北側には「凌雲亭」と
呼ばれる茶室が造られた時期もありました。

二の丸跡の南面から東方向にある臼杵造船所。


16:36
佛狼機砲碑(ふらんきほうひ)
大友氏がポルトガルから入手した。島津軍撃退に威力を示したといわれ(複製)。

佛狼機砲(国崩)(くにくずし)
天正四年(1576) ポルトガル副王より大友宗麟公に大砲が贈られました。
これは日本人がはじめて手に入れた大砲といわれています。宗麟公はその大砲を「国崩」と名付
けてそれをもとにした大砲を量産し、臼杵城に備えつけていました。
この大砲は複製品であり、原型は16世紀に大友氏が所有したのち薩摩藩主島津氏の手にわたり、
明治維新後に靖国神社に献納されたと伝えられています。
     1986(昭和61)年9月
           大分県臼杵市



                                     — 続く ー​​​​​​​​






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最終更新日  2022.01.20 03:00:05
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