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おじん0523のヒロ散歩

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2022.01.21
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カテゴリ:続 日本100名城

臼杵城跡(臼杵公園)の黄色(丸部分)の散策を続ける。
城跡は現在臼杵公園として整備されており、春には約1,000本の桜が咲き誇る県南有数の花見
スポットとなっています。


11月17日(水) 16:38
二の丸跡の東側にある、「大友宗麟公碑」


大友宗麟のレリーフ


大友宗麟公
大友宗麟(義鎮)(1530~1587)は、九州六ヶ国の守護職から九州探題職となり九州随一の覇者と
して、内外にその名を高め1562年には丹生島に城を築き臼杵から天下に号令を下しました。
このときから臼杵は、名実ともに政治経済の重要地として注目をあつめました。また宗麟は、
キリスト教を信じポルトガル、イスパニアなどとの交易を開き、当時臼杵は往来する外国船や
城下町につどう外国人などでにぎわい、異色の国際都市として発展しました。
その宗麟の偉業を偲んで、1937年郷土出身の彫刻家日名子實三氏によりブロンズのレリーフが
製作され、城跡に建設されておりましたが、第二次世界大戦(1944)での軍事資材として政府に
献納され、その雄大な人物像も姿を消しておりましたものを、1982年京都嵯峨美術短期大学の
辻浩氏の手によってここに復元製作されたものであります。
        昭和五十七年十二月 建立
                  臼 杵 市


稲葉良通(一鉄)公
一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成瀬に仕
えて土豪になったとされている。永正12年(1515)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、
美濃国に生まれる。幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永5年(1525)に父と五人の兄たちが全
て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して家督と曽根城を継いだ。
はじめ土岐成瀬の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三
人衆の一人として活躍する。永禄10年(1567)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、
道三の孫龍典が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。
・・・・・中略・・・・・
天正16年(1588)11月19日、美濃清水城にて死去。享年74。後を子の稲葉貞通が継いだ。
一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に努めた。又歌道や茶道のみならず、
医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。頑固な一面がありそのことから号の「一鉄」
にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされている。文武両道、智勇兼備の名将と言わ
れる由縁である。
臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。


稲葉歴代藩主とその時代


村瀬庄兵衛政績碑


村瀬庄兵衛政績碑
この石碑は、天保二年(1831)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを成功
させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。
この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていた時、担当
責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量人制出」の制度を採り入れ、無駄を省き、殖産にも
力を注ぎ財政再建に努めたこと。さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材
育成に努めたことなどが記されています。


臼杵公園内にはいろんな像、句碑等があった。
「廃墟」の像


ズームアップ。


「廃墟」の像
臼杵市出身の彫刻家・日名子実三(ひなごじつぞう)(1893~1945)の手によるこの「廃墟」は、
実三自身が大正九(1920)年発行の「美術写真画報第一巻第十号」で述べているように俊寛とい
う平安時代の僧侶がモデルです。
俊寛(しゅんかん)は同士とともに平家打倒を目指していましたが、安元三年(1177)この密議(
鹿ケ谷の陰謀)が平家に見つかり、俊寛は同士とともに薩摩国(鹿児島県)喜界島(硫黄島)に流さ
れ、そこで不運の生涯を送りました。
実三は俊寛への思いと、自らの中にある頽廃的な気分をこの彫刻で表しました。
実三は旧制臼杵中学校(現・臼杵高等学校)から東京美術学校彫刻科(現・東京芸術大学)に進み、
朝倉文夫に師事するなどして次々と作品を発表しますが、創作活動の後期においては、スポー
ツに関心を強く持ちはつらつとした健康的な作品も製作しています。
                        臼杵市教育委員会

二の丸跡から東方向に進み、
空 堀(南側)
本丸と二の丸を隔てる空堀で、大友時代からの北側堀と、17世紀初頭に造られた南側堀があり
ます。南側堀は稲葉氏入城まで、大手門から本丸に至る登城路としても使われていました。


空堀(北側)に石垣が残る。


本丸跡に植えられたサクラ。


本 丸(ほんまる)
江戸時代、空堀から東側の一帯を「本丸」と呼んでいました。この一帯が大友氏時代にどのよ
うな姿だったのかはっきりしていません。ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低いところに
あるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通と典通(の
ちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設
けました。土橋を渡るとすぐのところに鉄門という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。
空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。
明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。
                        臼杵市教育委員会


本丸の建物
江戸時代に入り平和が続くと、藩主が政務を執行する空間(「表」)と、藩主の生活空間(「奥」)
としての機能を持つ「本丸御殿」が中心的な役割を担いました。「表」も「奥」も「書院造り」
を基本としていました。
現在残されている絵図(指図)によると、「表」(茶色部分)には「御広間」「大書院」等、政務
遂行や儀礼に使われた部屋が見られます。「御広間」等からは「御舞台」が見える構造になって
います。舞台は主に能に使われていたと考えられます。
一方、「奥」(青色部分)には、「御座間」と呼ばれる藩主の部屋があります。本丸北側の崖ぎわ
には「御湯殿」が設けられ、現在で言う展望風呂のような状態になっています。
本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4
年(1676)、主な機能を二之丸(西の丸)御殿に移転しました。


臼杵城の石垣 ー 鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき)  
               大分県史跡 臼杵城跡
               臼杵市大字臼杵九三番地一
正面に見える石垣は、臼杵城本丸の入り口にあたる鉄門の枡形石垣で、枡形北側部分の石垣は
大正時代に撤去されました。城の心臓部に当たり、防衛的にも格式的にも高さが求められたこ
の石垣は、臼杵城のほかの石垣より大きな築石(石垣を構成する石材)が用いられています。
ひときわ大きな「鏡石」を中央に置くという技法は、角石が長さの長短を規則的にそろえる算
木積みの技法とあわせ、十七世紀初頭から主流になった積み方で、稲葉氏が城主となった直後
の改修で築かれた石垣とみられます。    
                     臼杵市教育委員会

鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき)
算木積み
角の部分に長方形に加工された石が長短交互に積まれています。
鏡石
石の表面が鏡のように平らなことからつけられたようです。

卯寅(うとの)稲荷神社
大友宗麟公が築城の際、卯寅口に建立した。
石柱に「これより北 卯寅口」と。


卯寅稲荷神社の由来
永禄五年(1562)大友宗麟公は丹生島に築城、卯寅口は城中の鬼門にあたるため外郭崖上に・・・
字が消えていて残念ながら判読できず。
   大祭日  四月・十一月
     昭和六十年十一月吉日
        卯寅稲荷神社奉賛会


卯寅稲荷神社拝殿、狛犬。

朱色の鳥居が並ぶ、遠く、臼杵湾に津久見島が浮かぶ。
卯寅稲荷神社の東側下に、卯寅口門脇櫓が建つ。
津久見島は臼杵湾の沖合い約7kmにぽっかりと浮かぶ島。「おにぎり島」と呼ぶ人もいるほど
市民に愛されている島である。古くは、臼杵七島の一つ「竹生島、竹島」と呼ばれていた。

卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)
寛永年間に再築された櫓で、鉄砲薬櫓とも呼ばれ、火薬庫としても使われていたようです。
1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造で半地下式となっています。

天守櫓跡


天守櫓(てんしゅやぐら)
この場所にはかつて、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。細菌の発掘調査によ
って、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高が臼杵城主であった、文禄3年~
慶長2年(1594~1597)ごろである可能性が高くなっています。
その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。このうち明暦元年(1655)の
修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の北西隅部の付櫓(天守櫓に
付属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように
改築されたことが江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明しました。
天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平
面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)までの高さが6間1尺(約12.0m)であったこ
とが記録されています。
ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示しています。

臼杵城絵図 天守部拡大(幕末頃)   本丸指図の天守櫓・付櫓部分=延宝4年(1676)頃
天守台石垣
天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、ほぼ石
山で割った状態のまま積み上げる、野面積みと呼ばれる工法をとっています。
一見、乱雑な積み方にも見えますが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、
表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしっかりとかみ合っているため、非常に頑丈な造り
となっています。
これに対して臼杵城内に現在も残る石垣の大半は、天守台が造られたあとの江戸時代に積まれた
ものですが、これらのほとんどが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合わせる積
み方になっています。見た目は整っていますが、天守台石垣ほど強度がないと考えられています。
                     臼杵市教育委員会


本丸跡の南側から、卯寅口門脇櫓を見下ろす。


卯寅口門脇櫓の下にある、「井戸丸」


本丸跡の石垣、亀首櫓(かめくびやぐら)方向の東側。


本丸跡から階段を下り「井戸丸」。


井戸丸の奥に、地蔵と祠。


井戸丸
この井戸は、寛永年間に掘られた井戸で、深さが10メートル以上あり、昭和25年頃までは大き
な木製の滑車をつけて水を汲んでいたが、今は使われていません。
またこの井戸は、水量も豊富で海が近いにもかかわらず真水がでていました。


井戸前から卯寅口門脇櫓を見上げる。


卯寅口(うとのぐち)
いわゆる「搦手口」と呼ばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから「井
戸丸」とも呼ばれていました。本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島(にうじま)」と呼
ばれ、周囲を海に囲まれていました。卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられてい
ました。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。
「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造った
からであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではあ
りません。
なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。

卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)
卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見坂張り、屋根は切妻屋根の櫓です。
現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854)に建てられたことがわかりましたが、17世紀前半の城絵
図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられ
ます。延宝4年(1676)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓」と記され
ており、その機能も時期によって変わっていったようです。
                     臼杵市教育委員会


未公開の、卯寅口門脇櫓


臼杵城の石垣 ー 武具櫓台石垣(ぶぐやぐらだいいしがき)  
               大分県史跡 臼杵城跡
               臼杵市大字臼杵九三番地一
この石垣は、臼杵城本丸の西南隅に築かれた、武具櫓の櫓台石垣です。西面は空堀底から立ち
上がるおよそ七メートルの高さを持ちます。現在はこの櫓台石垣の南面が壊されて道路となっ
ていますが、江戸時代は絵図のように堀の東面を仕切るような形状をしていました。
しかし、壊されているおかげで、当時の石垣がどのように積まれているのか、断面を観察する
ことができます。
稲葉氏の臼杵城改修期である1600年代初頭に、空堀が造られたのに伴って築かれ、その後に
何度か修理されているようです。    
                     臼杵市教育委員会


空堀の南側から北方向を見る


16:54
夕日が沈む。


本丸跡から二の丸跡へと進みその北側にいろんな文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等々が建っていた。
野上弥生子文学碑。
左の石碑には彼女の作品「迷路の」一節が刻まれている。

野上 弥生子は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、
写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで
80年余の作家活動を行った。芸術院会員。文化勲章受章。


河崎義教先生剣道記念壽表    明治三十五年八月有志建之
河崎先生は剣道の先生であったようだが。


文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等々が建ち並ぶ。


勤皇臼杵隊之碑


碑の台座に、
明治十年六月一日薩軍三千臼杵ニ迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ撃退シテ利アラス 死スル者四十三
當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラズ 必死ヲ期
シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ 灼乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢
ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス
               昭和十七年六月
                 臼杵隊義戦顕彰會
                   戦死者 片切八三郎
                   遺 腹 中根貞彦撰竝書  


個々の説明板が建っていた、
勤皇臼杵隊之碑
この碑は、明治十年(1877)に起きた西南戦争において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、
東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおい
て、尊い命を落した臼杵隊隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものです。
当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約三千人、これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人、来援
の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。

16:56
中根貞彦歌碑
歌碑には、「父のみの父は吾をみず ははそばの母はわが知らず 恋しき父母」。

説明看板の字は薄くなり、
中根貞彦歌碑
この碑には、次のような歌が刻まれています。
  父のみの父は吾をみず
  ははそばの母はわが知らず
  恋しき父母
中根貞彦氏は明治11年(1878)二王座の片切家に生まれました。早く父母を亡くしたため、父母
の顔を知らずに育ち、十五歳で佐伯の中根家の養子に入り、昭和八年(1933)には三和銀行の初
代頭取に就任しました。また、アララギ派の歌人としても知られ、早くして亡くした父母に対す
る深い○○の〇を歌に詠んでいます。
佐伯城の佐伯文化会館の前庭にも、中根貞彦の歌碑が建っていた。


16:56
この碑は、松尾芭蕉の句碑であろう、「稲妻や 闇の方行く 五位の聲」。


この説明板も字が薄くなり判読できず、
松尾芭蕉の歌集から、
「五位」は五位鷺(ごいさぎ)のこと。夜行性があり、夕方、不気味な声を出して飛ぶ。
稲妻が発している方角は黒雲が立ち上り、そこが無気味に光っている。その反対側の空は闇の暗
さだ。その中を飛んでいるのであろう五位鷺が不気味な声を張り上げなら渡っていく。この五位
鷺の姿は見えないと。


夕日が沈み旅友は急いで丘へと急ぐ。


16:58
露出をかえて撮影。



                                      ー 続く ー






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最終更新日  2022.01.21 03:00:06
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