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カテゴリ:近隣の市の歴史散策
旧アサヒビール神奈川工場の春めき桜を愛でた後、次の目的地「朝日観音堂」へ。 3月21日(木) 11:45 この後、右側の道へ入るが道が狭く戻ってくることに。 11:50 立派な枝垂れ桜があったがまだ硬いつぼみであった。 右上は先程旧アサヒビールの入口を撮影した場所である。 入口にあるメタセコイアが見えてきた。 旧アサヒビールから下り、この先の交差点を左折してこの場所へ。 この道は伊豆箱根鉄道大雄山線の大雄山駅からの道である。 この交差点を左折すると、一ノ堰を通り県道74号線(小田原山北線)の福沢小学校北側交差点へ。 南下すると大雄山駅方面へ。 道路脇に石碑が建っていたので停車。 この道を北上すると ”南足柄球場” があり試合で何度か走った道である。 道路脇に石碑。 石の上に置かれていたが「双体道祖神」。 道路脇にはバス停「富士通 朝日観音入口」。 ここを左折して「朝日観音堂」へ。 12:00 朝日観音堂手前の広場に車を停める。 朝日観音堂 所在地:神奈川県南足柄市怒田2179 朝日観音堂は非常に古くからある観音堂で、現在の観音堂は、江戸時代中期の建築。茅葺の屋 根や床下の亀腹と呼ばれる土壇に特徴がある古い形式の建築物である。 左手前の収蔵庫には神奈川県の重要文化財にも指定されている平安時代作の聖観音立像と兜跋 毘沙門天像が保管されています。ここには、藤原範茂の従者の墓と伝わる墓石も残っている。 名前の由来は、周囲を山に囲まれたこの地区にあって、朝日がよく当たる所に建てられている ところからついたとの伝承がありますと。 茅葺の朝日観音堂の屋根をズームアップ。 古くなり今にも崩れ落ちそうな状態になっていた。 観音堂のまだ新しい収蔵庫。 朝日観音堂 木造聖観音立像 木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像 小仏像 朝日観音堂は、江戸時代中期の建造と推定され、一辺が四間の宝形造で、基礎は、赤土を固め 表面に白い漆喰を覆った、亀腹と呼ばれる土壇です。 聖観音菩薩立像(像高133cm)は、平安時代の作で内刳りのない一木造りの像で、後世の補修 が多く入っており、地方仏に見られる面相と、都の影響を受けたと思われる裳(も)や天衣の表現 を併せ持つ像です。 三躯の兜跋毘沙門天立像のうち一部欠損している像(像高132.5cm)は、平安時代の作です。 このほか、平安時代から江戸時代までの小仏像十三躯が安置されています。 朝日観音堂は市指定文化財であり、聖観音立像や兜跋毘沙門天立像、小仏像は県指定文化財です。 平成二十三年三月 南足柄市教育委員会 木柱には、 県指定文化財 聖観音立像 兜跋毘沙門天立像 (三躰) 小 仏 像 (十三躰) 道路を挟んだ東側に社。 竹林の囲まれた社であったが。 正面から扁額もなく名称は? 朝日観音堂の境内右側に石碑、石像が立っていた。 岩肌を掘り抜いた中に石像、石碑が三体。 右側の笠付き墓塔には「山王大権現」と確認できた。 また「元禄・・・・・」も。 中央には「木食・・・・・」とかすかに。 左側には「地蔵」。 朝日観音堂の本堂を右前から。 本堂廻りには立入禁止のロープが張られていた。 本堂の扁額は「正観世音」と。 本堂右前に舟形手水鉢が置かれていた。 舟形手水鉢 本堂前の木柱には「市指定文化財 朝日観音堂とその土壇」。 朝日観音堂とその土壇 観音堂は、江戸時代中期の建造と推定され、一辺が四間の宝形造で、頂きは、箱棟でまとめら れている。 お堂の本身は外陣と内陣に分けられ、内陣には本尊「聖観音立像」が安置されていた。まわり には高欄の回縁をめぐらせている。 このお堂の特徴は亀腹(かめばら)と呼ばれる基礎の土壇にある。赤土で固め、表面を白い漆喰 で仕上げた饅頭形土壇で、本身の礎石がすえられている。 南足柄市教育委員 亀腹と呼ばれる基礎の土壇が特徴であると。 土壇をズームアップ。 荒れた本堂を左前から。茅葺は東側が崩れそうになっていた。 お堂の本身は外陣と内陣に分けられている。 葺き替えてから何年経ているのかそろそろその時期に。 現在は上怒田自治会の管理となっているようだが氏子の皆さんに浄財を・・・。 ネットで見ると2022年ごろからこの状態に。 周りが解放された外陣 (げじん)。 本堂の裏側(西側)に廻り込む。 枯れた紫陽花の花柄。 ドライフラワーに。 本堂の頂きは、箱棟 (はこむね) 。 箱棟 (はこむね) 一般的には寺院等の棟で芯の棟束や野棟等に板を張ったものを言い、瓦関係では箱冠 瓦を使用した棟のことを指しても言う。 本堂の箱棟とソメイヨシノ。 ソメイヨシノをズームアップするがまだ硬いつぼみであった。 本堂裏に宝篋印塔が建っていた。 木柱には「市指定文化財 藤原範茂卿従者の墓」。 境内裏の一段高いところに歴史を感じさせる宝篋印塔と墓石。 藤原範茂卿従者の墓 藤原範茂(のりもち)卿の従者の墓と昔から言い伝えられている宝篋印塔である。 藤原範茂は鎌倉時代に起こった承久の変(1221年)の時、戦に敗れ、捕われの身となる。藤原範 茂卿の墓は怒田切通しの丘陵上にある。 相輪は石材の質から後補のような感じがするが、形態から室町時代の造立と考えられ全体的に、 非常に整った宝篋印塔である。 戦前には、地域の人々が相当信仰したようで、墓前に供養のための木刀がたくさん供えられて あったというが、戦後はそういった風習もだんだん廃れていき、今日では、まったく見られな くなってしまった。 総高 一五四センチ 幅 六四センチ 奥行 六四センチ 昭和六十三年十二月 南足柄市教育委員会 字が彫られているが長い年月で風化して読みとれず。 12:15 本堂裏の西側には墓地があったが。 ー 続く ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.04 03:00:08
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