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2007.04.30
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カテゴリ:日々雑感
キリスト教に基づくとされている習俗
 キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い、また信者の生活をそれによって規制するが、一方で各地の習俗と融合して教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説するが、この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在しており、クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、枝の主日/聖枝祭、灰の水曜日、ペンテコステ、各種の行列、大勢の特定聖人の祝日などの祭日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。典礼暦の項目なども参照されたい。

クリスマス
 クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、イエスの誕生日は知られていない。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。神現祭の項も参照せよ。

 また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係である。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀にドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスのFather Christmassの伝承などを使ってニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである。

イースター
 イースター(復活祭、復活大祭)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつもっとも古く成立した祭のひとつであるが、現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。

結婚式
 宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘蹟(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。カトリックでは、結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、この典礼は略式化される。東方教会では、典礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。

 キリスト教式の婚姻では、キスが必須であると思われることがときにあるが、主要教派の典礼の上では必須ではない。

 現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっており、結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された牧師の下に司式されることが多い。そういった牧師の資格やそうやって行われた結婚式の有効性についての議論も存在する。

バレンタインデー
 西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へ主にチョコレートを贈る習慣が定着した。これもキリスト教の教義には根拠が無く、ローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であろうと言われている。

ハロウィーン
 ハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と関係がない。元々はケルト人のドルイド教の祭だっただろうと言われている。しかし西方キリスト教の祭りである、カトリックの諸聖人の日(万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じてアメリカ合衆国で広まった。近年はヨーロッパや日本でもカボチャのランタンを飾るなど、一部の習俗が入ってきている。

近世までのキリスト教の歴史
 紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。

 ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウスによりローマ帝国の国教とされ、異教を圧倒するに到った。

 キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。最初の分裂は4世紀半ばのアリウス派の離脱である。キリストの人性を主張したアリウス派は、最初のローマ皇帝の改宗や、ゲルマン人に大きな信仰を得るなど歴史的な意義は大きかった。しかし、アタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされたため、西暦325年の第1ニカイア公会議でアリウス派は異端とされた。アリウス派は北アフリカに渡り新天地を求めたが、今日では消滅している。

 2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。キリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされたため、431年のエフェソス公会議でネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで大きな信徒数を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国にも伝来した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア正教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。

 3回目の分裂は東方教会におけるエジプトやシリアの教会のいわゆる単性論教会としての離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され、一つの神性を持つとして451年のカルケドン公会議で異端とされた。単性論の教義はネストリウス派と正反対ともとれる。だが、これらの教会は「単性論」である事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明しした為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。ほかにエチオピア、アルメニアの教会もこれに続いた。

 4回目の分裂は、東西教会の分裂(「大シスマ」ともいう)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。しかし、その実態は政治的・文化的な問題であり、西ローマ帝国崩壊後に、神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に独立・挑戦した事件とみなせる。

 5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。

 これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる東方正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア正教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、キリスト単性論に属するエジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、コーカサス地方(元は小アジア)のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。

キリスト教が発展した理由
 ユダヤ教内の一宗派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度うまく適応していった。

 まず、使徒言行録の中にも描かれているようにキリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部に居る異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた(キリスト教の歴史)。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。

 当時のヘレニズム-ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、フリジア起源のアッティス教、ペルシャ起源のミトラ教、あるいはギリシャ起源のディオニソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている。(M.エリアーデ『世界宗教史』第205節)。

 キリスト教は皇帝崇拝を拒否したことでローマ帝国内で迫害されたが、こうした競合宗教から抜きん出た発展を遂げて国教化される。これについては護教論的説明かもしれないが、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることにキリスト教が成功したからだと説明されている(たとえばM.エリアーデ『世界宗教史』第239節)。いったん公認されていたキリスト教の特権を破棄したことで有名な「背教者」ユリアノス帝ですらキリスト教徒が、救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている(田川建三『キリスト教思想への招待』第2章)。

 西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)を管理し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。 さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。東方においては、キリスト教は中東・アフリカでは衰退したものの、東ローマ帝国の統治イデオロギーとして機能し、また西方と同じく、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。

 近代になると、西欧諸国は世界各地で植民地侵略を行うが、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事力と経済力とを背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が抱き合わせで図られていったのである。

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Last updated  2007.04.30 09:13:56
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たぬきねいり2@ 同じ事を感じました ジーゼルエンジンなら別ですがガソリンエ…
たぬきねいり2@ 昨今の 行革の著しい挫折をみると、ありそうなこ…
Paganus@ Re:違うでしょう。(08/16) たんかれいさん  文民統制の歴史的経…
たんかれい@ 違うでしょう。 文民統制とは ・宣戦や講和の権限 ・軍…

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