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2008.02.16
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カテゴリ:真面目に
 アメリカにおける人種とジェンダーの問題

 日系アメリカ人の歴史

 アジア系アメリカ人の歴史については、そもそもの移民の時に遡らなければならないならない。まず、アジア人がアメリカに入ったのは、大陸横断鉄道建設の際に、黒人に代わる労働力としてである。最初に中国人が、次いで移民制限後には日本人である。彼らは建設後も自国へは戻らなかったが、建設での貢献はもちろん、カリフォルニアでの農業の基盤作り(当時はほとんどが砂漠、中国人が灌漑の基礎、日本人が農業を本格的に)、安価で熱心な労働力として多大な貢献をした。しかし、それによって排除された白人がおり(白人の中でも下位に属する者が中心、遅くに移民として入り、そもそも下位に属するアイリッシュ系が特に。彼らは真っ先に解雇などの影響を受ける。彼ら自身のアイデンティティの為、白人優位、アジア系蔑視の態度を取る)、差別へと結びついた。もともと黄色人種として白人の下に位置づけられており、そこへ更に嫌悪の材料が加わったのであるから当然の結果である。アジア系への差別はここから強まった。例えば、日本人の数が増えてくると「ジャップ・ゴー・ホーム!」「イエロー・ジャップ!」「ダーティ・ジャップ」「ファイアー・ザ・ジャップ!」との名指しでの攻撃を受けることになった。そこまで激しくはないにしても、日系人に対する差別というのはそういったものがあった。
 また、二世になると別の問題もあった。大学を卒業しても就職先がなく、召使、子守といったものしか見つからないということもあった。白人の知り合いは、「日本に帰って働いたらどうだい?」と言うが、それに対する答えはこうである。「帰るってどういう意味だ? 行ったこともないんだぞ。ここが俺たちの国なんだぞ」と。こういったことは第二次世界大戦前までは普通に、おそらく、そのあともしばらくは続いたはずである。移民に対するという意味では、いずれは日本でも同様の問題が表面化することも考えられる。
 ただし、日本に関しては一概に被害者側であるとは言えない。歴史的に、奪亜主義に代表されるアジアは下、自分たちは違うといった考えがあるからである。実際、アメリカでアジア人への差別政策が取られようとした時に政府へと圧力をかけたが、自分たちだけは違うとの形であった。自分たちがアジア系であることに対するコンプレックス的なものもあるのかもしれないが、これを踏まえるに、一方的に被害者であるとの立場に立つのは難しいのかもしれない。


 アメリカにおけるアジア文化の受容

 このようにアジアは下位に属するとの考え方が中心であったが、アジア文化、更にジェンダーとの関連で見ていくと違った面が見えてくる。
 まず、美術といった観点から見ていく。美術においては「格」というものがある。例えば、彫刻といったものは高尚なものであり、男性のみが許されるといったことである。女性に許されるのは下位に属するものだけであり、彫刻などを行うには、有名な男性の芸術家の弟子になるなどといった形で、男性を立てなければならなかった。身近な例には料理もある。家庭での料理は女性の仕事であるが、それが文化的なもの、芸術に近づけばとたんにそれは男性のものとなる。本題に戻れば、アジアに属するものは下位に属することになる。そして、女性に許されるのは下位に属するものだけ。アジア文化と女性は下位に属するがゆえに結びついたのである。その結びつきの中では比較的自由な表現が許され(メアリー・カサットなど。裸体などのタブーとなるものも描いたが、アジアを前面に出すといった形で例外的に許された)、女性の自由といった面で大きな意味を持つことになった。
 更に、これは一般の女性をも勇気付けるものであり、アジアに属するものは、限定的ではあるが、直接的にも自由を与えた。そもそも女性に自由はなく、限定的に認められるのは家庭の中のみであった。そんな中、アジアの工芸品を家庭において飾り付けるのは彼女たちの自由に属する。加えて、それを買いに行く、つまり外に出ることも許される。当時の女性は出歩くことも一般的には許されず、また、お金を使うにも一々夫の許しが必要であったのだから、これは大いに意味のあることだった。こうして女性も割合自由に外に出ることが許されたが、これには副次的な意味もある。外に出れば当然人と出会い、会話をすることになる。アジアの民芸品を扱うような店には喫茶室のような場所があり、それがサロン的な役割も果たした。これが女性の自由化運動に結びついた――と安易には言えないが、直接ではないにしても、何らかの影響があったのは間違いないはずである。運動といったものは個のままでは生まれず、家庭の中に閉じ込められたままでは不可能だからである。
 また、こういった形でのアジア文化の受け入れは、アジアへの偏見を変える上で重要な働きをしたということも十分に考えられる。





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最終更新日  2008.02.16 16:24:07
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