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Bar UK Official HP & Blog(酒とPianoとエトセトラ)since 2004.11.

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2010/12/09
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 ◆ジェリー・トーマス:「派手」が大好き、行動するバーテンダー
 ハリー・マッケルホーン、ハリー・クラドックとカクテル史に残る偉大な2人のバーテンダーの生涯を紹介してきましたが、やはり、ここまでくれば、「カクテルの創始者」とも言われるジェリー・トーマス(Jerry Thomas、1830~1885)のことにきちんと触れておくことも、私の大事な責務だと思います。

 マッケルホーン、クラドックともに伝記本が存在せず、その生涯をたどるのには凄く苦労したのですが、トーマスについても伝記本はなく、さらに古い時代の人とあって文献資料も極めて少ないため、インターネット上の情報(とくに英文のサイト)から断片的な情報をかき集めるしかありませんでした。しかしようやく一編を書くに足るデータを、なんとか得ることはできました。以下は、米国では「The Pioneer Of Modern Cocktails」「The Father Of American Mixology」と称されるトーマスの生涯です。imagesJ1改.jpg

 ☆10代で「トム&ジェリー」を考案☆
 ジェリー・トーマスは、1830年、米ニューヨーク州北部のカナダ国境に近い、サケッツ・ハーバー(Sackets Harbor)という町で生まれました(月日は不明)。トーマスは10代後半(何歳の時かは不明=1940年代後半)に、お隣コネチカット州ニュー・ヘイブン【注1】のバーでバーテンダーとして働き始めます。1847年には、現代でもバーでよく飲まれている有名な「トム&ジェリー」【注2】というホット・カクテルを考案したと言われています(写真左=著書に絵で描かれたジェリー・トーマス。写真はほとんど伝わっていない)。

 しかし1848年、米西部で金鉱が発見され、いわゆる「ゴールドラッシュ」【注3】が始まると、トーマスも、バーテンダーとしてより大きな活躍の舞台も求め、また一攫千金も狙って、カリフォルニアへ旅立ちます。実際、カリフォルニア(のどこかは地名不明)で彼は、バーテンダーだけでなく、ある時は金鉱脈探しの開拓者として、ある時は旅芸人のショー(歌や踊り)の経営者として働きました(どれくらい儲けたのかは不明ですが…)。

 1851年、トーマスはニューヨークへ戻り、「バーナム・アメリカン・ミュージアム」【注4】内に初めて自らが経営するサロン・バーを開きます(トーマスは生涯に4店のバーを開いたということです)が、残念ながら、このバーがどんな店だったのか、営業状態はどうだったのかについての資料にはまだ出合っていません。

 ☆「火の弧」で魅せる「ブルー・ブレイザー」☆
 トーマスはその数年後、全米各地のさまざまなホテルやサロン・バーで、チーフ・バーテンダーとして働きます。セントルイス、シカゴ、サンフランシスコ、チャールストン、ニュー・オーリンズなど当時の大都市で彼は、その稀有な才能を発揮し、自分の技術を後輩に伝えていきます。

 1850年代、トーマスは、彼の名を永久不滅なものにしたカクテル「ブルー・ブレイザー(Blue Blazer)」【注5】写真右=を考案します。このカクテルは、要はホット・ウイスキーなので、カクテルというには少し違和感があるかもしれません。しかし、そのつくる際の派手なパフォーマンスが故に、今日でもバーテンダーが誰しも一目置く存在となっています。imagesJ4.jpg

 そのつくり方とは――。二つの金属製マグを使い、一方のマグに入れた温めたウイスキーを入れて火を付け、火が付いた状態のままのウイスキーを、熱湯の入ったもう一方のマグまで空中を飛ばして、二つのマグ間で2往復半ほど行き来させるというものです。火が弧を描くように流れ、見た目でも楽しめます。その派手で華麗な作り方は、全米各地で見る人の度肝を抜きました。

 ☆米国初のカクテルブックを出版☆
 1862年以前のある時期(時期は不明です)に、トーマスは、バー・ツールが詰まったかばんを携えて、欧州にも渡りました。彼がどこの国を訪れたのかについての資料は手元にありませんが、行く先々の国で、そのカクテル・テクニック(時にはボトル・ジャグリングまで!)を披露し、喝采を浴びたとは伝わっています。また、彼が携えていったシェーカーは金製、銀製のものや、宝石がちりばめられたものもあり、欧州のバーテンダーたちはその豪華さに目を見張ったということです。

 ちなみに、欧州からの帰国後(いつ帰国したのかは不明)、サンフランシスコの「オクシデンタル・ホテル」のバーで働いていたトーマスの給料は週給100ドルで、当時の米副大統領より多かったといいます。まだ30歳前半の彼の、バーテンダーとしての評価がいかに高かったかを表す事実です。この頃になるとトーマスは、周囲から敬意をこめて、“Professor(教授)”と呼ばれるようになったと伝わっています。

 1862年、32歳のトーマスは全米初の体系的なカクテルブック「How To Mix Drinks or The Bon-Vivant’s Companion」=写真左=を出版します。「How To Mix…」には約240のレシピが収録されていますが、その中には、それまで口伝だけでつくられてきた「***デイジー」(***はベースとなる酒)「***スマッシュ」「***コブラー」「***サンガリー」などという初期のカクテル(ミクスド・ドリンク)のレシピを数多く収録するとともに、トーマス自身のオリジナルも何点か収録しています(1876年の再版本では、英国生まれの有名なカクテル「トム・コリンズ」のレシピを米国で初めて紹介しています)。imagesJ5.jpg

 ☆経営不振の後、55歳の若さで急逝☆
 1866年、36歳になったトーマスはニューヨークに戻り、「メトロポリタン・ホテル」のチーフ・バーテンダーとなります。そして、まもなくマンハッタン・ブロードウェイのそばのビルの地下に、自身のサロン・バーを開きます。トーマスは、そのサロン・バーを人気の風刺画を展示するギャラリーとしても活用するなど、ニューヨークっ子の話題を集め、マスコミでもたびたび取り上げられたそうです。

 しかし、順調だったバー・ビジネスに不運が襲います。晩年、トーマスはウォール街での株投資に失敗し、多額の負債を抱えてしまいます。その結果、自分の店や買い集めた美術コレクションを売却せざるを得なくなります。しばらくして店の再開にこぎつけますが、かつての賑わいは戻らなかったといいます。

 1885年12月15日、トーマスは脳卒中のためニューヨーク市で亡くなります。まだ55歳の若さでした。彼は中年になるまでに結婚し、娘を二人もうけたといいますが、子孫のその後は不詳です。彼の訃報を伝えたニュー・ヨーク・タイムズは、「彼はあらゆる階級、階層の人たちに愛されたバーテンダーだった」とその死を悼みました。【注6】

 ☆マティーニの発展に貢献☆
 彼の死から2年後の1887年に再版されたカクテルブックには、現代のマティーニの原型とも言える「マルチネス・カクテル」【注7】が、彼自身の「遺作」であるかのように初めて紹介されています。だから、トーマスのことを「マティーニの創始者」と言う人もいます。

 「マルチネス」のレシピは現代のマティーニと似た部分もありますが、異なる部分も多いため、彼が創始者かどうかについては、今日でもなお論議があるところです。しかしこのカクテルをきっかけとして、現在のマティーニまで発展してきたことは疑う余地はありません。

 彼の残したカクテルブックは、現在もなお版を重ねて、世界中のバーテンダーに読み継がれています。生涯をカクテルの発展と普及に捧げたジェリー・トーマスの功績を否定する人はいないでしょう。現代に生きるバー業界の後継者たちが、彼の生涯にもっとスポットライトをあててくれることを願ってやみません。


【追記1】ジェリー・トーマスについては、彼の人柄をほうふつとさせる一風変わったエピソードがいくつか伝わっています(出典:ウィキペディア英語版)。いくつか紹介してみましょう。
 (1)子供用手袋をはめるのが好きだった(2)金ピカの腕時計をいつもしていた(3)ベア・ナックル・ファイト=懸賞付の素手ボクシング試合=の愛好家であった(4)美術コレクターであった(ニューヨークの彼のバーにも収集したたくさんの絵が飾ってあったそうです)(5)「肥満者協会」(Fat Men’s Association)のメンバーだった(ちなみに彼の体重は205パウンド=約93kgだったとか)(6)1870年代からはひょうたん栽培に興味を持ち、「ひょうたんクラブ」(The Gourd Club)の会長にまでなり、品種改良して大型品種を生み出すまでになった。

【追記2】本稿を書くにあたっては、「ウィキペディア」英語版の「Jerry Thomas」の記述など数多くの英文サイトのお世話になりました。この場をかりて感謝いたします。

【注1】ニューヘイブン(New Haven)は、米東海岸のコネチカット州南部にある都市。名門イェール(Yale)大学があることで有名。

【注2】現代の標準的なレシピは、ダークラム30ml、ブランデー15ml、全卵1個、熱湯(または牛乳)60~70ml、砂糖2tsp、ナツメグ少々

【注3】1848年1月、米カリフォルニア地方の川で砂金が見つかったのをきっかけに広がった金鉱脈探しブーム。一攫千金を狙う開拓者が米東部や欧州からカリフォルニアへ続々と押し寄せた。(トーマスがおそらく訪れたであろう)サンフランシスコはそれまで人口1000人ほどの小さい村だったが、金鉱脈探しの拠点の一つとして大都市へと発展。1年後の人口は2万5千人まで急増した。カリフォルニアは翌1850年の9月、州に昇格した。

【注4】「バーナム・アメリカン・ミュージアム」は1841年、PT・バーナムという興行師がニュー・ヨーク・マンハッタン島南部に設立した。「ミュージアム」とは名ばかりで、実態は「偽人魚」「珍動物」「小人」などを見せる見世物小屋だった。しかし24年後の1865年、ニューヨークの大火で焼失した。

【注5】標準的なレシピは、温めたウイスキー60ml、熱湯60ml、粉糖2tsp、レモンスライス

【注6】“Thomas was at one time better known to club men and men about town than any other bartender in this city, and he was very popular among all classes”(New York Times, Dec 16 1885)

【注7】トーマスのオリジナル・レシピは、オールドトム・ジン30ml、スイート・ベルモット60ml、アロマチック・ビターズ1dsh、マラスキーノ2dsh、シュガー・シロップ2dsh

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Last updated  2021/06/08 12:00:33 PM
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うらんかんろ

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汪(ワン)@ Re:Bar UK写真日記(74)/3月16日(金)(03/16) お久しぶりです。 お身体は引き続き大切に…

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