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テーマ:ミニカー大好き(3286)
カテゴリ:ラリーカー
以前に書いた記事に「Bの時代」とゆーのがあって、どーゆー理由か知らんが書いて何年か経った後にアクセス数が急増した時期があって、結果うちの記事の中でもトップクラスのアクセス数を稼いでいる。
たった3車種並べて「(グループ)Bの時代」とはおこがましいのだが、あれから月日が過ぎて車種(カラバリ含む)も増え、更に先週「グループBと言えばコレがなきゃ」な車種も納品されてきたんで、もいちど記事にしてみよか~とゆーことで。 グループBの緩いレギュレーションはもっけの幸いとばかりに、各メーカーが持てる技術の粋を結集して好き勝手やりたい放題やった結果、多種多様なマシンがまさに百花繚乱(笑) HPIレーシング1/43 ランチア・ラリー037 “1983年モンテカルロラリー 優勝” #1 ワルター・ロール / クリスチャン・ガイストドルファー グループBカーによるラリーイベントは1982年から始まるが、初年は旧規定グループ4との混走であり、翌83年こそがグループB元年(諸説あります) その83年の開幕戦モンテカルロを制したのがこのロールの037。 グループ4時代のアウディクワトロの出現によって、もはやラリーは4WDじゃなくては勝てないだろうと考えられてきたが、ランチアの考え方はちょっと違った。 他社に先んじてグループBラリーカーを開発スタートしちゃってたってこともあるんだが、たとえライバルが全部4WDになったとしても、みんな4駆レースの経験なんかないんだからすぐさま勝てるわけじゃないだろ。 相手が熟成に手間取る間に、手慣れた2WD車で勝てるだけ勝っちまおうって短期決戦を目指したわけで、この作戦はまんまと成功。 グループB元年のマニュファクチャラータイトルを奪取したのは2WDの037だった。 イグニッションモデル1/43 トヨタ・セリカ・ツインカムターボ “1983年1000湖ラリー 6位” #12 ユハ・カンクネン / ステファン・ペターソン シーズン半ばも過ぎて8月末の1000湖ラリーでデビューしたセリカ・ツインカムターボ(TA64) ランチアがミッドシップ2WDを出してきたのに対して、トヨタの回答はFR。 とはいえ、ランチアのように短期決戦に持ち込もうとしたのではなく、当時のトヨタの台所事情としてWRCを戦える4駆乗用車がなかったから。 会社創設DNAにモータースポーツが組み込まれていない日本メーカーが、ラリー参戦のためだけに一般受けするかどうかわからない、下手すりゃ在庫の山となるクルマを作れるわけがない。 選択肢は既存の市販車を改造の一択、とゆーのは当時の状況としては仕方がない。 (ラリーありきでクルマを作り、バブルの恩恵もあってそれがまたバカ売れするのはもう少し後の時代) それでもラリーバージョン専用のフロントグリルやブリスターフェンダーなどレーシングカーとしての雰囲気はバッチリ。 デビュー戦6位入賞も立派だが、TA64の白眉は84年からのサファリ・ラリー3連覇だろう。 過酷なサファリゆえに、複雑な4駆システムより耐久性も信頼性も高くメンテも楽なFRだからこその勝利だな。 全方位的に勝負できるマシンは「222D(実際はグループBよりパワーダウンしたグループSだが)」に託す筈が、グループBおよびグループS廃止によって計画はプロトを2台作っただけで頓挫。 MR2ベースのモンスターマシンが、砂塵を巻き上げてカッ飛んでいくところは見てかったなぁ。 スパーク1/43 ポルシェ 911 SC/RS “1984年イープル・ラリー 優勝” #6 ヘンリ・トイボネン / イアン・グリンドロッド WRCじゃなくてヨーロッパラリー選手権、ベルギー伝統のイープル・ラリー(昔はイプルーって言ってたけど、今は英語発音でイープルとゆーのが標準らしい)で勝ったトイボネンの911。 トイボネンはある意味グループBを象徴するドライバー。 ポルシェはグループ4からグループBへの移行に当たって貧乏くじを引いた側の代表選手。 グループBってぶっちゃけ2座であることと排気量別の最低重量とタイヤサイズが決まってるだけで、その他はどーでもいい超ゆる~い規定だったけど、その最低重量のところで3リッターオーバー(過給機係数1.4掛け後)の車輛はグループ4時より95キロも重くなってしまうことになった。 これじゃあ勝負の権利を失ったも同然。 後継としてグループB専用マシン959を開発するもWRCには参戦せずだが、現代の911カレラ4にも通ずる4駆システムをこの時開発出来たと考えると意味深い。 スパーク1/43 プジョー205 ターボ16 “1985年モンテカルロ 5位” #8 ブルーノ・サビー / ジャン=フランソワ・フォーシル グループBを象徴する、あるいはグループBの方向性を決定づけたといっても過言ではない一台。 見た目はどうってことない小型大衆FFカーと同じでも、その内側はまったく異なるミッドシップターボエンジンの4WDカーを初めて具現化した。 本来エンジンが鎮座している筈のボンネット下にはスペアタイヤとフロントデフが収まっている。 この「ぱっと見は市販車、中身は全然別物」スタイルがグループBを発展(というよりは暴走)させ、グループB廃止を速めた原因にもなった。 開幕モンテではまだ市販車の名残があるが、ツールドコルスから投入されたターボ16エボ2は、なりふり構わずルーフにアホみたいにデカいスポイラーを装着して大変身。 アウディの追撃をかわしてドライバー・マニュファクチャラーの2冠に輝いた。 翌86年もランチア相手に(失格騒動を経て)連覇。 ヘッドライナー1/43 ルノー マキシ5ターボ “1985年ツールドコルス DNF” #12 フランソワ・シャトリオ / ミシェル・ペラン プジョー205ターボ16以前、旧グループ4時代に同じようなことをやった先達がルノー5ターボ。 小型大衆FF車のルノー5の駆動方式をまるっきりひっくり返して、ミドシップエンジンの後輪駆動としてターボで武装し小型軽量+大パワーを信条とした。 (このコンセプトは広く一般に受け入れられて、ホモロゲ規定数以上の3000台もの大ヒットとなった) しかし重量級「アウディA1、2」によって大型ボディで重かろうが4WDならば勝てることが証明され、小型車はいろいろな面で不利になり、ターマック限定で強さを発揮するものの選手権争いの主導権を握ることは出来なかった。 結局トップ争いを演じるよりも、参加台数の面でイベントを下支えする存在になったルノー5だが、やっぱりメーカーとしては参加してるだけじゃあなぁ!と欲も出ちゃうのは仕方がない。 最低重量は増すことになるが、太いタイヤを履くためにあえて排気量を上げてターマックでの戦闘力を上げる作戦にでた。 それが5ターボから5年も過ぎたツールドコルスでデビューしたマキシで、シャトリオ#12号車はミッショントラブルでリタイアするも、僚機フィリップスカラーの#3号車が目論見通りデビュー優勝を飾った。 「既存メーカーがコラボして業界のトップブランドを目指す」がコンセプトのヘッドライナー(京商とイグニッション)だが、そうは言ったもののしのぎを削る競合メーカー同士ゆえうまくいかない部分もあったのか長続きせず、ほんの一時の徒花に終わった。 イグニッションはレースカーをやめて、ヤンキーガレージべったりの体制へ舵を切っちゃったから、きっともう出ないだろう。 スパーク1/43 アウディ スポーツ クワトロ S1E2 “1985年サンレモ 優勝” #5 ワルター・ロール / クリスチャン・ガイストドルファー 今回のグループB車輛の一気出し企画を思いついたきっかけになったマシン。 ようやく納車の運びとなりました。 とゆーのも、ちょっと前に86年モンテ仕様が出てて、そいつは17年のオートモビルカウンシルで実車に遭遇してもいるから↓ こっちにしよっかな~とも思ったんだが、やはりそこは戦績重視で。 3位4位のモンテコンビのどっちかよりかは、唯一優勝の85年サンレモ狙いでしょ?とスルーしたんだが、とにかく待つのが苦手なもんで、モンテ仕様をカートに入れては削除を何回繰り返したことか(笑) 小型軽量が命だったラリーカーの歴史を、4WDを武器に一気に塗り替えてしまったアウディクワトロもグループB時代に入るとやはり大柄なボディにフロントエンジンそして重量が足枷となって思うような戦績があげられず、シーズン後半ついにチバラギ車もかくやとばかりにエアロで重武装。 デビュー3戦目のサンレモでシーズン初優勝するも遅きに失した感あり。 翌86年は開幕モンテで3位4位となるもワークス欠場の第2戦をはさんだ第3戦ポルトガルでの事故(フォードのマシンが沿道の観客に突っ込んだ)を受けてアウディ・ワークスはWRCから撤退を表明。 結局アウディ渾身のモンスターマシンS1E2がステージを駆け抜けたのはたったの5戦。 なのにグループBと言われて(真っ先にとは言わないまでも)これを思い出すのは、それだけ強烈な印象だったってことだよね。 最近オミットされがちな(タバコだからね)HBロゴもシカトで再現されててバッチグー(笑) HPIレーシング1/43 ランチア デルタS4 “1985年RAC 優勝” #6 ヘンリ・トイボネン / ニール・ウィルソン マシン、ドライバーともに良くも悪くもグループBの象徴。 “もっとも美しい”ラリー037を引退に追い込んだプジョー205ターボ16に対するランチアの答えは「スーパーチャージド・ターボ4WD」 ターボラグが発生する低回転域は、スーパーチャージャーが加給することによってシームレスにパワーを引き出した。 パワーウェイトレシオが5程度ならアマチュアが操るレベルとしてなら上出来、35GT-RやRCFでも3前後なのに、S4はなんと1.5! あまりにカッ飛ぶその狂馬は当然乗り手を選び、S4をまともに御すことが出来たのはトイボネンただ一人だったと言われ、最終戦RACラリーでデビューウィンを飾る。 本格参戦となった86年は幸先よく開幕モンテで1-2フィニッシュ、続くスウェーデンで僚友マルク・アレンが2位と順調に加点するも、ポルトガルは観客を巻き込む事故で全ワークスが撤退。 仕切り直しのツールドコルスで最悪の事故が待ち構えていた。 インフルエンザが完治しないまま参戦したトイボネンだが、最初の17回のSS中12回でトップタイムをたたき出して2位を3分近く引き離したブッチギリの単独トップ。 しかし続くSS18で、トイボネンのS4は山間部の下りコーナーを接触跡もブレーキ跡も残さずに直進し、崖から落下して爆発炎上、コ・ドラのセルジオ・クレストとともに死亡。 85年コルスのアッティリオ・ベッテガの死亡事故、86年ポルトガルの観客を巻き込む事故、そしてトイボネンの死亡事故をもって、グループB(並びにパワーダウンしたグループS構想)は廃止されることとなった。 当時、後発メーカーでラリーカーとCカーに特化していた今は亡きHPIのデルタは、脂がのってた時期の商品で、これはもう決定版といってもいーんじゃないか? HPIミラージュ1/43 フォード RS200 “1986年アクロポリス DNF” #2 スティグ・ブロンクビスト / ブルーノ・ベルグルンド 他社がどうしても市販車外観の縛りから抜け出せなかったのに対して、フォードは市販車にはないレーシングカー然としたスタイリング、そしてメカ面でも最適重量化を計るためミッドシップエンジンからトランスミッションを切り離してフロントに持っていく比類なき発想でグループB戦線に登場した。 しかし如何せんその登場は遅すぎた。 巨額の製作費をかけて(何しろ1台作るごとに200万円以上の赤字だ)WRC参戦はたったの4回。 大企業ゆえの紆余曲折、決定の遅れだのトップ交代による方針変更だのドイツ(ツーリングカー)とイギリス(ラリーカー)での部品共通化をめぐるゴトゴタだのによって、開発計画は常に後ろ倒し状態で86年になってようやくデビュー。 しかし3月のポルトガルでは姿勢を崩して沿道に鈴なりの観客に突っ込み、6月のヘッセン(ERC)でも姿勢を崩し立ち木に激突、炎上しコ・ドラが死亡。 どちらも100%クルマが悪いわけではないが、クルマの速度や挙動をドライバーが制御しきれなくなっていることを如実に証明したカタチだ。 特にレーシング然としたRS200は、アンジュレーションに富んだ公道ではエキセントリックだったのだろうか。 それでも心機一転、悪路で名高いアクロポリスで、最終的にリタイアするものの一時は1-2体制を構築するほどの可能性を見せた。 87年以降もグループB(あるいはS)が続いていたら、熟成の進んだRS200がシーズンを席巻したかもしれない。 とはいえ、統括団体(FISA)も度重なる死亡事故を全スルーするわけにもいかず、グループB(およびグループS)を86年限りで廃止する以外の選択肢はなかった。 フロントエンジン4WD、ミッドシップ2WD、ミッドシップ4WD、ミッドシップ4WD+トランスアクスル等々エンジニアがアイデアを絞りだし持てる技術の粋を集めたグループBラリーカーは、まさに百花繚乱。 残念ながら「ヒューマンフレンドリー」とゆー発想がそこにはなかったため、たった5年でその幕を閉じることになった。 短くも峻烈だったからこそ、そこに惹かれちゃうんだろね~ シトロエンBX4TCとかMGメトロ6R4とか新規で出ないかな。。。 (メトロのプラモ買っちゃおうかなぁ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.29 01:12:46
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