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テーマ:ミニカー大好き(3244)
カテゴリ:F1
アイルトン・セナがイモラ・タンブレロコーナーに散ってから30年。たった11シーズンのF1キャリアをミニチュアで振り返ったろかという無謀な企画の後半戦。時代はプロスト、ピケ、マンセルとの四天王による王座争奪戦から、セナVS誰それというタイマン勝負の時代へ。
前回を同じ画像じゃ能がないっつーわけで、おフランス製JFクリエーションのヘルメット(1992年型1/12スケール)を添えてみた。 1989年 トゥルースケール1/43 マクラーレン MP4/5 ホンダ 1989年モナコGP 優勝 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/5 ホンダ 1989年日本GP DNQ セナ大得意のモナコは、前年のポルティエ単独クラッシュを肝に銘じたか、ポールから一瞬たりともトップを譲らない完璧なレース運びでモナコ2勝目、というかプロストが妖怪通せんぼジジイに遭遇してしまったせいで、レース自体がぶち壊しになった印象しかない。マクラーレン2台のギチギチの鍔迫り合いが見たかったのに。 そんなマクラーレン2台のギチギチの鍔迫り合いの結果が天王山鈴鹿のシケイン。 その要因の一つがリアウイングのエンドリップなのは発売当時に書いた。そういう再現度が高額アイドロンの魅力なのは今も変わりないが、今回引っ張り出してきて気がついちゃったんよね。サイドポンツーンのラジエーター開口部の下の部分(シェルロゴの下)はカーボン剥き出しじゃなくて(トゥルースケールのように)白塗装が正解なんだよね。こーゆーのは後述のMP4/8でもあって結構考証が甘いんだよねえ。スパークみたいに安けりゃ(もう安くもないけど)まだあれだが、その3倍もするんだからちゃんとやって欲しいもんだが、今回アイドロンのHP見に行ったらフォーミュラ関連は完全削除されてんし(黒歴史ってか?)もうやらないだろう。 89年の革新技術といえば、セミオートマ。まだまだ熟成には至らずリタイアを積み重ねたが、開幕ブラジルGPでは大方の予想もドライバー本人の予想も裏切って優勝しちゃった。どうせさっさとリタイアだよと早めの飛行機を予約してたマンセルは、表彰式のおかげでチケットが無駄になった(笑)。そしてマクラーレンの最強エンジンパワー全開で車体は大きなウイングで押さえつける方法論が効力を失い始めた年でもあった。 ホンダに切られたロータスに残留した中嶋悟は、大雨のオーストラリアGPで日本人初のファステストラップを記録。3シーズンのロータス人生に花を添えた。 1990年 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/5B ホンダ 1990年アメリカGP 優勝 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/5B ホンダ 1990年日本GP DNF エンジンパワーが少々劣っていてもボディ全体でダウンフォースを稼いで、結果サーキットコース全体でのスピードが上がるデザインが主流となっても、ホンダパワーに依存せざるを得なかったマクラーレンは旧態依然としたシャシーに大袈裟なディフューザーを付け加えることくらいしかできなかった。そのご自慢のバットマン・ディフューザーもシーズン半ばには廃止され、結局この年もホンダパワー依存で乗り切った。ホンダエンジンという宝玉を手にしたが故にシャシー開発を疎かにしたツケは、翌年以降支払うことになる。 前年鈴鹿のアクシデントやそれまでの本人の言動から「セナは危険なドライバー」包囲網が当時のFIA会長ジャン=マリー・バレストルによってひかれ、その下らなさに辟易したセナのモチベーションはダダ下がり。開幕戦が始まってもテンションは上がらない元ワールドチャンピオンの横っ面を思いっきりひっぱたいたのが新進気鋭のジャン・アレジ。まぁ直角コーナーばかりで速度の上がらない市街地コースだったことも後押ししたんだろうが、非力なティレルでトップ快走、セナに抜かれた次のコーナーで差し返すドッグファイトを展開。このバトルに刺激を受けてやる気が戻ったとセナは後のインタビューで語っている。 そして運命の鈴鹿。去年の意趣返しとばかりに1コーナーでプロスト駆るフェラーリに特攻。セナプロ対決クライマックスの丁々発止を期待した多くのファンを失望させた。今年の日本グランプリの時、もしこの年も春先に開催されてたらどうなってたろうなぁと思ったよ。シーズンは開幕したばかりの手探り状態だから、あとあとの事を考えて特攻なんてことはあり得ないし、フェラーリ対マクラーレンの真っ向勝負が繰り広げられたかもしれないわな。 この年、日本人レギュラードライバーが二人に。最先端トレンドのマシンを与えられた中嶋悟とコンサバなシャシーに高出力エンジンという旧態依然のマシンの鈴木亜久里。体力的にマシンの性能を出し切れなかった中嶋に対して、前年全戦予備予選落ちという辛酸をなめた鈴木亜久里が鈴鹿で値千金の3位表彰台。 1991年 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/6 ホンダ 1991年ドイツGP 7位 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/6 ホンダ 1991年日本GP 2位 前年のフェラーリの速さに刺激を受けたか、完成が大幅に遅れ開幕フェニックスにあらわれたMP4/6の外観はフェラーリそっくりだった(セナ大好きのモータージャーナリストI氏をしてフェラーリのフェイクと言わしめた)。それもそのはず空力関連のデザインをフェラーリからやってきたアンリ・デュランが努めたのだから当然っちゃあ当然。本家のフェラーリがフロントウィングに関するレギュレーションを甘く見積もったために失速し、代わって台頭してきたウィリアムズの追撃を辛くもかわして、ぶつけ合いなしの王者獲得(とはいえ、同僚ベルガーに「優勝くれてやるよ」事件はあったが)。意外なことにV12エンジン搭載車のチャンピオン獲得は長いF1史でもこのクルマだけ。 ドイツGPのマクラーレン・ロゴはせっかくタミヤがプラモ化するのにバーコードロゴじゃなぁ、ということでタミヤファンのロン・デニスがフィリップモリス社と交渉した成果。 本来一番のライバルは同じマシンに乗るチームメイトであるわけで、ベルガーがその気になれば第二のセナプロ抗争が勃発したかもしれないのに、早々に白旗を挙げてオフタイムの悪戯にばかり精を出す体たらく。「ワールドチャンピオンになるためにマクラーレンに来た」筈なのに譲られた鈴鹿の一勝だけじゃあねぇ。とはいえある意味歴史的な出来事なんでちゃんと鈴鹿仕様のベルガー車も確保してあるけど、ここでは前期型(ウインドスクリーンなし、赤バックミラー)のモナコ仕様を。 1992年 フラットアウトメモリアル1/43 マクラーレン MP4/7A ホンダ 1992年モナコGP 優勝 ホンダパワーがあれば万事解決という開発姿勢を続けたために、シャシー技術や空力、コンピューター制御のハイテクデバイスといった新しい波に完全に乗り遅れたマクラーレン。92年になってようやくセミオートマや雌型モノコック、ドライブ・バイ・ワイヤなどライバルがとっくに採用してる技術が実践投入され始めたものの、信頼性に欠け完走率は50%を下回った。更にアクティブサスを搭載した4/7Bも投入予定だったが新機構の熟成に手間取りデビューは見送られた。そしてバブル崩壊とヒット商品を生み出せなかったツケが経営を圧迫して、ホンダはF1からの撤退を表明。88年からの常勝黄金コンビがついに終焉を迎えることになる。 フラットアウトは、タメオやBBRのメタルキットをモデルガレージロムのお抱えモデラーが製作した完成品で、このMP4/7AはイギリスGP仕様のタメオキットを改造してモナコ仕様にしたもの。 92年はまったくもってハイテク・ウィリアムズとマンセルの年であって、セナとマクラーレンにとっては(てか拙にとっては、かな)「ここはモナコ、モンテカルロ!絶対に抜けない!」でお馴染みのモナコGPラスト8周の大立ち回りが唯一のハイライトだろう。荒法師の「俺を誰だと思っているんだ」走法をもってしても抜けなかった鉄壁のディフェンスを手に汗握ってリアタイ出来たのは僥倖だった。 引退した中嶋悟と入れ替わりでF1サーカスの仲間入りしたのはカミカゼ・ウキョーこと片山右京。鈴木亜久里が在籍したラルースの血を引くヴェンチュリーからエントリー。鈴木亜久里はラルースを出て日本のフットワークエクスプレスが買収し無限ホンダエンジンを積むアロウズに移籍。いずれも目立った活躍はせず。 1993年 BBR1/43 マクラーレン MP4/8 フォード 1993年ブラジルGP 優勝 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/8 フォード 1993年モナコGP 優勝 アイドロン1/43 マクラーレン MP4/8 フォード 1993年オーストラリアGP 優勝 ホンダ撤退によって最強ワークスエンジンを失ったマクラーレンだったが、それが逆に奏功したカタチのMP4/8。パワーはあるが大きく重たいホンダエンジンにかわり軽量コンパクトなフォードHBエンジンを積んだおかげでマシンバランスが向上。アクティブサスやセミオートマといった流行りのハイテクシステムも搭載して優勝5回、ホンダを失ったマクラーレンはもうおしまいという評判を覆した。 雨のドニントン、ドライバーズサーキットのモナコ、予選重視のハンガリーなどでは最強FW15Cに一泡吹かせることもあったが、パワー重視のサーキットではルノーV10には歯が立たず、ワークスフォードを積むベネトンと競り合わなければならなかった。 ミニチュアモデルに関しては、一見してバランスの悪いBBRに対してアイドロンはイメージばっちりなんだが、ディテールが残念なのは過去記事(モナコはこちら、オーストラリアはこちら)を参照してもらうとして、どこのGP仕様でもいいから決定版っつーの出してくんないかしら。。。 1994年 ミニチャンプス1/43 ウィリアムズ FW16 ルノー 1994年パシフィックGP DNF そして運命の1994年。2年間ウィリアムズと格闘してきて、その強さ速さに「ウィリアムズに乗れるならギャラなんかいらないよ」とまで語るなど恋焦がれ、ついにそのシートを手に入れたセナがまさかの開幕3戦連続リタイアのノーポイントでシーズンを終えるなど誰が想像したろうか。 ハイテク装備に全力投球した結果が、出る杭は打たれるの典型で94年はハイテク全廃。加えてエイドリアン・ニューエイの悪癖(レイトンハウス時代もあった空力の突き詰めすぎ)からセンシティブなマシンとなったFW16でセナがフルシーズン戦ったとして、はたしてチャンピオンを獲得できたかどうか。それはもう神のみぞ知る世界。 素直にハイテクを取り外したウィリアムズと巧妙に隠し残したベネトン。どちらが勝つにしても94年シーズンはこの二人を中心に回った筈。 セナ亡き後、本来なら「絶対王者セナVS新興ヤングガンズ」というFOCAの筋書きは崩れ、マンセル・プロスト・セナの豪華リレーで3連覇を目論んでいたルノーの計画も風前の灯火。そこで登場するは大看板マンセル。参戦中のCARTスケジュールの合間を縫って仏、西、日、豪の4戦にエントリー。ウィリアムズのコンストラクター制覇に力を貸した。 まぁセナがいたらばマンセルの復帰はあり得なかったろうが、セナとマンセルのコンビというのも見てみたかった(きっとうまくいかないだろうけど)。 セナ没後30年ってことで、セナの時代をさらっと振り返るってことだったが、ここに記した以外にもあれやこれやが思い起こされたんだけど(撃墜事件や激怒事件①VSシューマッハ、激怒事件②VSアーバインなどなど)、再現するためのミニチュアがなくて泣く泣くオミット。 もしもセナが存命なら今年で64歳(!)。当時のF1ドライバーは選手生命が短いから2000年までは走ってないだろう。最後は美味しいランチのお礼にロハでミナルディにのって引退しただろうけど、その後どう生きたんだろう。父親の事業を引き継いで会社経営?政治に打って出る?可能性としてはそんな感じなんだけど全然イメージが湧かないわ。スーツ姿なんて想像つかないし、結局いつまでたってもお腹にでっかくバンコ・ナシオナルて書いてある赤いレーシングスーツのドライバーであり続けるんだな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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あの頃のF1はセナを軸に面白いレースが数多くありましたね。
当時はアンチセナでしたが、振り返ればセナのマシンは全てコレクションしてたりしますし、やっぱりあの時代の象徴なんですよね。 アイドロンのMP4/5Bは良いですね。なんとか手に入れたい1品なのですが、なかなか出会いが無くて・・・ (2024.05.22 10:26:21)
元H@さんへ
>やっぱりあの時代の象徴なんですよね。 好き嫌いは別にして、セナを中心に回っていたのは確かですね。当時を思い起こすときは、どう考えても「振り向けばブーツェン(古館語録)」じゃないし、振り向けばプロストでも振り向けばマンセルでもなく、振り向けばセナが一番しっくりきます。 >なかなか出会いが無くて・・・ 私の場合はMP4/7Aです。 (2024.05.23 05:49:11) |