万雑632_亡くなった藤原二郎の慈母の挽歌3首(大伴家持_132)
万雑632_亡くなった藤原二郎の慈母の挽歌3首(大伴家持_132)次は、藤原二郎が慈母を亡くした悲しみを家持が弔問した挽歌、長歌(4214)と短歌2首(4215、4216)です。4214_「天地の 初めの時ゆ うつそみの 八十伴の男は 大君に まつろふものと 定まれる 官にしあれば 大君の 命恐み 鄙離る 国を治むと あしひきの 山川隔り 風雲に 言は通へど 直に逢はず 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに 玉鉾の 道来る人の 伝て言に 我に語らく はしきよし 君はこのころ うらさびて 嘆かひいます 世の中の 憂けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ うつせみも 常なくありけり たらちねの 御母の命 なにしかも 時しはあらむを まそ鏡 見れども飽かず 玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せゆくごとく 置く露の 消えゆくがごと 玉藻なす なびき臥い伏し 行く水の 留めもえぬと 狂言か 人の言ひつる 逆言か 人の告げつる 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙 留めかねつも」※_「天地の始まった時から、この世の多くの官人たちは、大君にお仕えするものだと決まっている役なのだから、大君のご下命を慎んでうけ、遠い辺地の国を治めようとして、(あしひきの)山や川が間を隔てて、風や雲によって言葉は通い合うにしても直接には逢えない日が続くので、心に思い恋い、ため息をついているときに、(玉鉾の)道をこちらに来る人が便りを聞かせるには、”ああお気の毒に、わが君は最近しょんぼりとして嘆いておられます。この現世の憂いこと辛いことには、咲く花もその時になれば散ってしまい、人の世も常に変わらぬものではないのでした。(たらちねの)ご母堂は、どうしたことでしょう。ほかに時もあるでしょうに、(まそ鏡)見ても飽きず、(玉の緒の)惜しまれる年の盛りなのに、立つ霧が消えてゆくように、玉藻のように力なく臥せってしまい、流れる水のように留めることも出来ませんでした”と、ふざけたことを人が言うのか、でたらめを人が告げたのか。梓弓を爪で弾き鳴らす夜の音のように、遠くの噂話としても聞けば悲しくて、(にはたづみ)流れる涙を留められません」と歌っています。4215_「遠音にも君が嘆くと聞きつれば音のみし泣かゆ相思ふ我は」※_「遠くの噂としても、あなたがお悲しみと聞いたので、声をあげて泣けてしまいます、あなたを思う私は」と歌っています。4216_「世の中の常なきことは知るらむを心尽くすなますらをにして」※_「人の世の無常であることはご存知でしょう、そうお嘆きなされるな、立派な男子なのだから」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平8年(736年)家持が19か20歳で秋の歌4首(1566~1569)あり天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平10年(738年)4月3日に弟の書持に贈った歌3首(3911~3913)天平10年(738年)家持の7月7日の七夕に作った歌(3900)天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平11年(739年)8月;家持と叔母の坂上郎女との相聞歌(1619)天平11年(739年)9月;家持と坂上大嬢との相聞歌(1625、1626)天平12年(740年)6月;家持が坂上大嬢へ贈った歌(1627、1628)※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?天平15年(743年)8月;秋の歌5首(1597~1599,1602,1603)あり※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平16年(744年)4月5日;佐保の旧宅で作った歌(3916~3921)※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(746年)正月;天皇の詔に応えて詠んだ歌(3926)天平18年(746年)7月に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平18年(746年)8月;宴会で詠んだ歌(3943,3947,3948,3950)天平18年(746年)9月;弟の書持の急逝を悲しむ歌(3957~3959)天平18年(746年)11月;大伴池主との詩酒の宴での歌(3960,3961)天平19年(747年)2月;病に臥して悲傷して作った歌(3962~3966)天平19年(747年)4月;送別宴の歌(3989,3990,3995,3997,3999)天平19年(747年)9月;逃げた鷹の歌(4011~4015)天平20年(748年)1月~;家持が作った歌(4017~4031)天平20年(748年)3月24日、25日;布勢の湖での歌(4037~4051)天平20年(748年)3月26日;帰京前日の歌(4054,4055)天平感宝元年(749年)4月14日から7月2日までの元号天平勝宝元年(749年)7月2日に聖武天皇から孝謙天皇に代わった天平勝宝二年(749年)3月頃;家持の妻の坂上大嬢は越中に居ました天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)_済巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)_済巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)_済巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)_済巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上