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カテゴリ:不易流行
現代ならいざ知らず、一体 江戸時代のその折の急な会合の連絡方法はどのように取られたのであろうか、
大津は元より、京にも急遽回状が廻り、義仲寺無明庵で日ならず開かれた 餞別吟 には、 主客の乙州・芭蕉を含め、京より去来・凡兆・嵐蘭も駆けつけ、大津の門人では正秀・珍碩・土芳・史邦・半残・野水 など 、女性陣では智月・羽紅と 総勢十六名のにぎやかな餞乙州東武行 となった。 芭蕉も己が伊賀上野より、初めて東下りした寛文十二年春、二十九歳の折に近い年恰好の乙州に深く思い入れがあって、その折の東海道 途中の宿場の印象でも思い出したのか まずは 「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」(うめわかな まりこのしゅくの とろろじる) 新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ汁もおいしい季節を迎えていることだろう と乙州へ餞<はなむけ>の吟を発句し 、以降、乙州の返答の脇句 かさあたらしき春の曙(かさあたらしき はるのあけぼの)。 旅傘も新調しました。季節も新たな春のあけぼのです。江戸に向けて出発します に始まり、延々と歌仙が巻かれ、最後に 雛の袂を染るはるかぜ (ひなのたもとを そめるはるかぜ)。 春もたけなわ。春風に雛人形の袖が花々の色を受けて七色に染まっていく。 と羽紅が女性らしく美しく巻きおさめた様子は 『猿蓑巻之五』に詳しい・・。 その折、餞別吟の前後には、主だった門人の去来・凡兆や伊勢屋主人の「水田正秀 通称孫右衛門」と芭蕉の席をはずした間にひそひそと話しこみ、今後の大津門人の取りまとめは誰にやってもらうかとか、庇や立て付けの傷んだ義仲寺内の無明庵の建て直し等をどうするか等も話し合われたに違いない・・・ 雪も止み、そんなこんなで無事 餞別吟がお開きとなった翌朝、客もいなくなった寺内で 、芭蕉は一人、木曾塚之坊の草庵前の土中より早くも厳寒に耐えながら春の草が芽を出しているのを認め 木曽の情雪や生えぬく春の草 (きそのじょう ゆきやはえぬく はるのくさ)。 と詠じ、人生の会者常離を味わっていた。 しかし体調は、年末来 ぐっと冷え込んだこの寒さのせいか、また芭蕉の持病の痔疾が痛み出し、 たまらず故郷の伊賀に治療を兼ね帰郷することとなり、前回の折も同道させた下僕 六兵衛 をお供に、駕篭に分厚い座布団を敷き、痛々しく乗り込む芭蕉へ、 伊賀上野の手土産に乙州の妻の手作りの水菜や鮭を持たせ、弟ばかりか、師匠の芭蕉まで、年明けより急にいなくなる寂しさで、街はずれまで心配しながら見送る智月尼の目にも光るものがあった。 この折の伊賀上野への帰郷は随分長く、三ヶ月も滞在し、次に大津へ帰ってくるのは桜の花も散り初める旧三月も末ごろとなった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 25, 2020 09:48:33 PM
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