大津から伊賀上野まで、地図で見てみると、直線距離で凡そ30kもあるだろうか・・。
どの山道を抜けるにせよ、うねうねと曲がりくねっているので上り下りを含んで十里の道のりにはなる。 徒歩や、まして駕篭に乗って行くと、二日の行程で、いずれの山道を通うにせよ、信楽で一泊して翌日到着となる筈・・
さて、芭蕉一行が伊賀上野へ向かう道筋を推定してみると・・・ 早朝に義仲寺を出立し、瀬田の唐橋を渡り、左岸沿いに南下し
現在の南郷水産センターあたりで東から流れ込む大戸川を渡り田上の郷を抜け、
対岸の立木観音の鎮座する山を眺めつつ、西に大きく蛇行する勢田川と別れ、浄土寺・若王子寺の 門前を通り、更に支流の大石川の上流めがけて坂を昇っていき
そのまま下りきったあたりより、宇治田原や朝宮の茶畑を三里程うねうねと上下しつつ東に向かい、日暮れてやっと信楽の里に辿り着く。
翌朝も東へひたすら桜峠を目指し、峠越えの諏訪神社から南下し七曲の下り坂を降りきった辺りが伊賀上野の町外れとなるわけだが、結構な道中ではある。
(伊賀上野 芭蕉生家)
元禄四年一月六日に義仲寺を出立し、八日に伊賀上野に戻った芭蕉は暫く治療に専念し、やっと小康状態に落ち着いた、一月十九日、智月宛へ次のような書を したためた。
六兵衛とめ申候。(暫く起き伏しの手伝いに伊賀に留めたので)さまざま御しかりなさるまじく候。 われらぢびやう(痔病)もこの五三日心もちよく候まゝ、はるのうちやうぜう(養生)いたし、 おにのやうになり候て、(鬼の様に頑丈になって)しきものゝふとんもいらざるやうになり候て、(大津へ戻り)御めにかけ可レ申候。 かご(駕籠)のうちにて、こしもかたもいたみ候而、やうやういが(伊賀)へ入申候。 水な(水菜)は方ばう(方々)へわけて送り、さけ(鮭)はでししゆ(弟子衆)にふるまひ候。 いつもいつもよめご(嫁御)御ほねおらせ、まことにいたいた敷、忝、ぞんじまいらせ候。よくよく御心得なされ可レ被レ下候。 正月十九日 ばせを 智月さま