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カテゴリ:不易流行
堅田での十六夜の観月句会の翌朝、舟を出す時間待ちに京都の豪商「兎苓」が代々保持する堅田の別邸で接待を受け、 邸内に植えられて枝もたわわに実っている柿の実や青いミカンをみて、挨拶吟として
「祖父親孫の栄えや柿蜜柑」(おおぢおや まごのさかえや かきみかん) と詠んだのは芭蕉のサーヴィス精神の表れだろう。 帰帆した翌日十八日も、お気に入りの石山寺へ 支考らと参詣している。 この年はたまたま閏年で二度も八月があることとなり、中秋の名月が二度訪れる訳で、当時の風流俳諧人には堪らない年回りとなったが、 その翌月閏八月十八日も石山寺にお参りし、支考・珍碩・楚江らと瀬田川に舟を浮べて宵待ちの月を愛で 「名月はふたつ過ぎても瀬田の月」(めいげつは ふたつすぎても せたのつき) 「橋桁の忍は月の名残り哉」(はしげたの しのぶはつきの なごりかな) と詠んだ。 九月二十九日には江戸へ向け出発し、数年間(元禄七年閏五月まで)しばらく、近江を留守にする事になるのだが、 それを期してか、九月十三日、之道らと石山寺へ三たびめの参詣をしている。 この日の早朝詣りは、近江にはやくも寒気とともに、ばらばらと霰が降りしきる生憎の日和だったが、 「石山の石にたばしる霰哉」(いしやまの いしにたばしる あられかな) と、東下りを前に、近江への別れ難い 愛惜の情を詠んでいる。(石山寺門前辺り) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 31, 2020 08:14:26 PM
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