|
カテゴリ:不易流行
元禄七(1694)年 七月初め 江戸より待ちかねた二郎兵衛が義仲寺無名庵に帰参し、 故郷伊賀での寿貞尼の盂盆会に参じる為、七月五日 慌しく大津を後にして、一先ず 京都桃花坊の去来亭に挨拶がてら出向。
芭蕉の本意は兎も角、同年六月十五日大津に入り,僅か二十日程が最後の大津滞在となった。 芭蕉はその後京都から七月中旬に、伊賀上野の兄者 松尾家に帰郷し、寿貞尼の玉祭りを済ませ 「家はみな 杖に白髪の墓参り」と 詠み、九月上旬まで滞在。 大津滞在時、医師の木節亭に再々集まった維然・支考ら門人衆が伊賀に出揃った九月八日、 二郎兵衛に兄の子又兵衛も伴い、洒堂・之道の手打ちの会を催すを目的に、一同打ち揃い 、終焉の地 大阪 浪速を目指し旅立って行った・・ 伊賀からは大和街道を進み、木津川沿いの笠置を過ぎ、山越えして柳生を抜け、 奈良に入るのが定番であろうか、その辺の風景を 「此道や行人なしに 秋の暮」と詠み、夕刻猿沢池の畔に宿を定め 一泊。 翌日九月九日重陽の節句(菊の節句)の奈良では 京終(きょうばて)近くの東木辻町の称念寺で休憩し 「菊の香や 奈良には古き仏たち 」と詠い 同日 尼ヶ辻を過ぎ、生駒の暗(くらがり)峠越えの折には 「菊の香にくらがり登る節句かな」との健脚振りにて お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 13, 2020 04:59:19 AM
コメント(0) | コメントを書く
[不易流行 ] カテゴリの最新記事
|