1380055 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

piyotaの【ちぇブラで行こう】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

カテゴリ

フリーページ

バックナンバー

お気に入りブログ

ハニカムフロッグフ… ホムラspさん

久しぶりタコ Nori1022さん

今日は久しぶりの雨… 天野北斗さん

美渓遊釣 みのふさん
すずき君を釣ろう! 新バネさん

コメント新着

piyota0@ Re:2024年の目標というか予定というか(01/07) 始発で河和に電車釣行の時のシミュレーシ…
piyota0@ Re[1]:2024年の目標というか予定というか(01/07) 衣浦トンネル東詰 碧南緑地の南角でシー…
piyota0@ Re:2024年の目標というか予定というか(01/07) 05:41発 本山(愛知県) 名古屋市営東山線高…
piyota0@ Re:2024年の目標というか予定というか(01/07) 06:28 出発駅 本山(愛知県) ↓ 名古屋市営…
piyota0@ Re:2024年初釣り!チンタ沸く新居海釣り公園(02/03) <small> <a href="https://ameblo.jp/gee…

ニューストピックス

プロフィール

piyota0

piyota0

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2008.12.16
XML
カテゴリ:生命科学

Y大で近々学位発表審査会を受けることになる大学院生YKくんと話したこと。
もう予聴会を行うだけの時間的余裕もないので、YKくんに最後の審査会通過のための心構えというか考え方をなんとなく話す。あとはYKくんが出たとこ勝負で何とかするしかない。

さて、少なくともPiyotaの知る限り、Y大の学位審査会はかなり厳しい。だがその厳しさは、審査する側も審査された側も後々誇っていい類の、学問的に見て実に真っ当な、健全な厳しさなのである。確かに、Y大某専攻において、審査会に参加する教員の先生方の専門分野が、構造生物学・プロテオミクス関連に妙に偏りすぎていることは否めない。いや、偏りすぎである。だが、そういう分野の偏りを超えて、学位審査会がちゃんと学位にふさわしい人物を見極めるために機能しているという一点において、稀有な成功例なのではないか、とすら思える大学院なのである(もちろん、過去の卒業生に例外は存在するかもしれないが・・・)。

ちなみに、もし理想の大学で、理想的に学位審査会が行われるのだとしたら、そこで学位申請者に問われることになるのは、その者の持つ知識ではないはずである。(もちろん、知識は最重要課題ではあるが)。
だが、むしろ、そこで真に問われるのは見識である。

Piyotaの乏しい知性では、知識と見識がどう違うのか正確に理解できてないかもしれない。それでも敢えて上記のような書き方をしようと思う。

ちなみに、いろいろな状況を想定してみても、人が何らかの試験や選定審査において、知識を問われることは多いが、見識を問われることは、一般人にとっては、まずない。就職の面接しかり、入学試験しかり、日本の国政選挙においてすら、立候補者の見識が問われてそれを投票で選ぶようなことは残念ながら行われていない。そういう中にあって、その人の見識が判断基準となるような審査会という点で、博士課程の学位審査会は稀有の体験ができる、ほとんど唯一の機会である。Piyotaが知る限り、被選考者の見識が問われるケースがもう2つだけあり、その一つは、大学の基幹講座の教授ポストにおける教授選考であり、もう一つはたぶん大きな基礎科学系の学会の会長選挙である。二つもあるなら唯一じゃない、といわれればそれまでであるが、あとの二つは普通の人はめったに経験する機会がないはず。博士課程の学位審査は、博士課程に進みさえすれば誰でも経験できて、大学院の博士課程は定員的には本人が希望さえすれば進学先はよりどりみどり、であるから、より一般的である。

ともかく、問われるのは(科学者としての、○○研究者としての)見識である。

知識の正確さが必ずしも問われているわけではないので、審査官から発せられた意地悪な質問すべてに完璧に正答しなければならないわけではない。自分の知識に限界があるならばそれなりに、虚心坦懐に、論理的科学的に答えればよいのである。そこを覚悟していないと、答えられない質問や答えにくい質問が来た時に、「真っ白になって」しまう。答えられない質問や答えにくい質問が来た時に、動揺するわけでもなく、軽率に間違えた答えをするわけでもなく、逆切れするわけでもなく、冷静に科学的に対処する。そういう能力のことを「見識」というのではなかろうか?

博士号というのは、博士号にふさわしい見識を持っていることの証しである。

それを持っていることが、持っている人の社会的地位や経済的成功を約束しないのは当たり前であるし、博士号を「科学をすることの免許」みたいにいうのも間違いだと思う。だが、それが、それを持っている人の見識を保証する証書なのだとしたら、それはやはり至宝には違いない。それが至宝だと思える人は、だからぜひ大学院博士課程に進みなさい。

なお、余談であるが、しばしば経済団体や経済系メディアが発表する、「大学院博士課程修了者は企業では使いにくい(ので就職採用時に敬遠される)」というネガティブキャンペーンには、むっとすると同時に当たり前とも思う。知識の少ないヒトが知識の多いヒトを雇って働かせるということはしょっちゅうあるしそんなに技術もいらないが、見識の低い人が自分より見識の高い人を意のままに動かそうというのは原理的に無理である。そりゃ当り前でしょ。でもさあ。「うちの会社の中間管理職は見識の低いものが多いので、学位所持者を上手に活用できません」という告白を、嬉々として行う経済団体って何なんだろうね一体。まあ確かに、そういう団体の会長や役員の顔ぶれを見ても、とても見識高いメンバーとは到底思えないことが多々あるので、いわずもがなかなあ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008.12.18 00:20:21
コメント(0) | コメントを書く
[生命科学] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.