劇評:TRASHMASTERS 『そぞろの民』
現在形の批評 #105(舞台)・TRASHMASTERS『そぞろの民』2015年9月14日 下北沢駅前劇場 ソワレ「物語のための物語」が生む悲劇で、観客の意識は変わるか? どんな表現であろうと、舞台には展開される物語がある。戯曲を伴った筋のある舞台であればなおさらだ。笑って泣ける大衆演芸的なものであれば、観客は煩雑な日常を一時忘れ、どっぷりとという虚構へと身を浸す。方や、現代を生きる我々を取り巻く世界認識への気付きを与える、寓意や批評を伴ったものもあろう。そこでは、日々の忙しい日常と舞台が地続きであることを意識させる。そして、忙しさにかまけて見ないようにし、考えないようにしていたことを突き付け、内省を促す。もしかしたら、ある観客はそれによって人生が変わるかもしれない。それは、舞台が観客の認識の枠組みに転換をもたらし、生への介入を行ったためである。そういった作品は、少なからず啓発性を帯びることになろう。 TRASHMASTERSを主宰する中津留章仁は、社会的な題材を盛り込んだ無骨な作風で知られる。その無骨さがゆえの直截的な表現により、彼もまた観客への啓発を意識した作家と言えるだろう。新作である『そぞろの民』からは、変わらぬ政治権力への批判精神は理解できる。しかしその勢いが急くあまり、啓発というよりかは自らの主張を押し付ける説教になってしまった。政府が強行に推し進める、新たな安全保障法制に代表される政策。これに徹底して批判的でない日本人は死ぬべき、という恐るべき結論を描いたからである。 本作には三つのタイプの日本人が登場する。兄弟である彼らは、リベラル左派の政治学者であった父を持つ。長男の豊田孝太郎は軍需産業に従事し、次男・慶吾は新聞社に勤める記者。そして現在はニートである三男の勇樹。勇樹はエンジニアとして赤外線レーダーを開発したが、兵器に転用した会社の方針に反発し退社した。兄弟の中で、勇樹が最も左派に近い人物である。父の志を最もストレートに受け継いだ者のように思われる。 上手にダイニングキッチン。下手にはテレビのある畳敷きの居間。そこにやってきた老齢の元大学教授がテレビを点けると、衆議院の特別委員会で安全保障関連法制の採決が行われている様子が流れる。そこから、日付は2015年7月15日であることが分かる。その様をぼんやりと眺める父は翌16日未明、居間を挟んだ向かいの庭で首吊り自殺で死亡した。観客の注意を一気に舞台に向ける、ショッキングでドラマチックな始まりである。父はなぜ自殺したのか。親戚一同・仕事仲間などが出入りする父の通夜の席で、先に紹介した3兄弟の責任の所在を検証する物語である。その過程で、それぞれ異なる兄弟の生き方と父との関係性が浮かび上がってくる。と同時に、沖縄県出身の父の親戚たちによって、なぜ父親がリベラリストになったのかも語られる。そこからは、基地問題を象徴として、本土の都合によって負担ばかりが押し付けられる沖縄の歴史的な負性が顕在化してくる。 ではなぜ、父の自殺が3兄弟の責任の追求につながるのか。父が自殺するきっかけを作ったのは、勇樹であると孝太郎が詰問し始めたからである。施設を抜け出してたびたび帰宅してくる父親を、同居する勇樹が見張り、施設に連絡する役目を負っていた。だが17日、勇樹は彼女と共に国会前の反対デモに出かけた。そのために、父に自殺の隙を与えたというのだ。そのことと併せて、開発した機器が軍需転換されたくらいで仕事を辞め、ニート暮らしをしている勇樹の生き方自体についても、孝太郎は激しく責める。軍需産業に従事する孝太郎は、自国を守るために国防を強化し日本独自で安全保障を行うべきという立場である。孝太郎にすれば、国防に利する機器を開発しながらも、非戦・平和論者であることを理由に会社を退職して、現実をすぐに変えるわけではないデモで政権批判を行う勇樹の姿は、本当に日本の平和のために行動を起こしていない生半可な人間に映る。そんな勇樹の半端さが父の死を引き起こしたことに、孝太郎は我慢ならないのだ。父の死の原因の一端を勇樹は認めるものの、どう責任を取るのかと孝太郎はなおも執拗に迫る。それに対し勇樹はついに、リベラルな父に育てられたにも関わらず、孝太郎が軍需産業に従事していることへの疑義と、本来なら喪主を務めるべき通夜にも商談のために遅れて来たことを激しく責め始める。勇樹にとって、孝太郎は父の意志を踏みにじり、戦争の片棒を担ぐ悪なのだ。だが、アメリカ人との件の商談の席で、憲法第9条が日本の足枷になっていることを指摘され、激高したことを孝太郎はやがて告白する。一見して孝太郎は右派のように見えるが、実は護憲派だった父の教えが活きていたのである。父の理想主義をストレートに受け継いだのが勇樹だとすれば、孝太郎は戦争が起こらないように抑止を強化するという、現実主義的なアプローチから思想を引き継いだと言えよう。父親の思いとは裏腹に時局が転換する現代。その意志をどのように息子たちが引き継いでいるのか。そのことを、激しい議論の応酬の中から描き出す。リアリズムに徹した俳優たちの演技力は、観客を作品世界に引き込むには十分である。それが、平和主義をどう未来に受け渡してゆくのかという、世代伝承の可能性を巡る物語に迫力をもたらしてはいる。 劇中盤からクローズアップされるのは、孝太郎と勇樹の仲裁に入った慶吾である。兄弟の争いにあくまでも中立的な立場で、争いをなんとかうまく収めようとする慶吾は、孝太郎に代わって喪主の代理を務めた。劇のはじめには、政治家と癒着する記者クラブ制度を告発するべく動いている同僚記者を思いとどまらせるべく、説得に努めていた。慶吾は孝太郎とはまた違った現実主義者である。観客はそのことを、劇冒頭で登場するこのシーンであらかじめ知っている。慶吾は孝太郎のように、堅い信念をむき出しにして相手と戦うことはない。意見を十分に聞いて相手のやろうとすることを理解しつつも、はやる思いが勝って行き過ぎた部分を諭して、冷静な対応をするよう促す。このような、周囲との協調性を重んじる慶吾にも、リベラルな父の教えは生きている。だが、自らの意志と思想を相手に主張しないということは沈黙するに等しく、本音で相手と意見を交わすことを避ける日和見主義と裏腹だ。まさに慶吾のそのような姿勢を、当の父が「怖かった」と日記に記していたことが、劇後半で明らかとなる。施設を抜けて帰宅してきたのは、見舞いに来ても沈黙し何を考えているのか分からない慶吾から逃げるためだったのである。頻繁に見舞っていた慶吾は、兄弟の中で最も父を心配しているという自負があった。だが、父による日記の暴露によって、自らの存在こそが父へのプレッシャーとなっていたことが白日の下にさらされてしまう。そして通夜が明けた17日早朝に、父と同じ場所で慶吾が首吊り自殺した姿が発見され幕となる。 以上の劇展開は観客を飽きさせることがない。特に、慶吾も自殺するという終わり方は、確かに観る者に衝撃を与える。急展開とはまさにこのことである。護憲派の反戦主義者であった父を殺したのは慶吾だったことが判明するからだ。彼のように協調性と沈黙によって対話を避けるのは、大多数の日本人のことではないか。私は安保法制が可決された9月18日の夜に、一度だけ国会前のデモに参加しただけだ。したがって勇樹のように、反戦思想を貫くために仕事を辞めるという覚悟はない。孝太郎のように父の思想を持って軍需産業に加担し、外国人と対等に渡り合おうとする強さも持ち合わせていない。できることと言えば、直接的な対峙をなんとか回避して穏便に済ますために翻弄する、慶吾のような態度である。中津留は慶吾に日本人の大部分を代弁させ、観る物に感情移入させるように描いた。そんな慶吾を自殺させたということはどういうことか。孝太郎や勇樹のように具体的な行動を起こさないサイレントマジョリティーは、善意という名の沈黙と協調性によって、結果的にリベラルな理念を殺すことに加担してしまう。そのような慶吾=大多数の日本人は、死して罪を償うべきである……。父と慶吾が自殺という結末によって円環的につながったことにより、このような劇構造が屹立してくる。 慶吾は父の手紙によって真実が暴露した直後に、泣き崩れる。そんな彼に寄り添って、妻の香織は叱咤激励しつつ、これまでの慶吾の生き方を肯定し、「それでも生きていきましょう」と確認し合う。慶吾と思想を同じくする妻を演じた川崎初夏は、男を強く引っ張っていく姉御肌のキャラクターとして香織を演じる。彼女の演技力によって、悲劇的ではあるが、夫婦寄り添って新たな人生を歩もうとするシーンに説得力が増す。だが、そんなささやかな希望を感じさせておきながら、その直後に慶吾を自殺させてしまう。まるで中津留は、失敗に気付いた時にはもう遅く、できることは死んで償うだけだと言わんばかりだ。 自殺が発覚した朝、居間で寝ていた沖縄人の親戚・我那覇翔が寝ぼけ眼で起きて、「これは悪夢か?」と現実を受け入れられない様子の台詞を吐く。この言葉が示す通り、中津留は露悪的なラストを夢・虚構として描いている。それが意味するのは、慶吾のような生き方をしているだろう「気もそぞろ」な大多数の観客に、悪夢を見せることなのだ。そのことによって観客の意識を覚醒させ、劇場の外で進行する政治に対する批評性を促そうとしているのだろう。 観客を罵倒して気付きを与える点では、イプセンによる1882年の作品『人民の敵』に通じる。オフィス・コットーネが8月に上演した(演出=森新太郎、構成・上演台本=フジノサツコ、プロデューサー=綿貫凜、8月31日ソワレ、吉祥寺シアター)。町の温泉保養地が汚染されていることを発見した医師・ストックマンが、そのことを論文にし公にしようと奔走する。当初は論文掲載に協力的だった新聞社の主筆や印刷所主は、件の問題を揉み消そうとする町長に本意させられ、非協力的になる。それでも正義を貫こうとするストックマンの行動は裏目に出て、ついには協力者がいなくなる。そこでストックマンが無理やり開催した町長糾弾の集会にて、体制側になびき、長いものにまかれる多数の市民こそが正義を阻む本当の悪だとぶち上げるのだ。劇内容だけを取れば、『そぞろの民』と作品意図は同じに見える。しかし、オフィス・コットーネ版では、プロレスリングのように組まれた舞台上、天井から降りてきたマイクを使って演説する。それは文字通り、プロレスのマイクパフォーマンスに似た行為として演出されている。そのため、俳優の熱演に見入るものの、同時に十全に感情移入させないように演出されていた。 対して中津留には、そのような一歩引いた冷静さがない。その点を踏まえれば、観客を罵倒する中津留はどれだけ偉いのだ?という反発する気持ちが浮かぶ。つまり、自身を高尚な位置に置き市民に説教していることに対して、いささかも違和を抱いていないのだ。その点こそ、本作の最大の瑕疵であり、啓発からはみ出していると冒頭で指摘した所以なのだ。だから、絶望の縁にある慶吾がそれでも一歩踏み出そうとする姿を描きながら、直後に自殺させるという2重の悲劇が与える暴力性は、「物語のための物語」でしかないと私は考えるのだ。 しかしそういったことを差し引いても、中津留は今の日本の現状に対して怒りを持っていることは了解できる。近年稀に見る挑発的な作品であることは確かである。