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テーマ:猫のいる生活(136016)
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ロサンゼルス近郊のアナハイム南西部に「ディズニーランド」がオープンしたのが1955年の7月。
実に64年も前のことなんですね。 ロナルド・レーガンは覚えてらっしゃいますよね。 アメリカ第40代大統領のロナルド・レーガン。 大統領になる前はカリフォルニア州知事でした。 さらに以前は映画俳優だったのはご承知の通り。 そのレーガンがディズニーランドのオープン記念特別TV番組に出演してるのです。 レーガンはもともとラジオのアナウンサーだったので、報道番組に類するTVショーはお手のものだったのですね。 で、ディズニーランドはオープンセレモニーに先立って、ディズニーの従業員を「さくら」として配置してたのです。 なぜって?まだ海の物とも山の物とも知れない遊園地にはたして入場客が充分くるか不安だったからです。 実際にはオープン当日の来場者が55,000人を越え、どこもかしこも大混乱。 「さくら」は不要だったのです。 しかも、オープン当初は「ジャングルクルーズ」や「蒸気船マーク・トウェイン号」など、11種類のアトラクションしかありませんでした。 1955 Celebration with Walt Disney, parade なんか映像を観ていると、昔、奈良にあった「ドリームランド」にそっくり。 ドリームランド、ご存じない? 2006年に閉園するまで、ディズニーランドを模倣した遊園地として一世を風靡した大型遊園地だったのですよ。 実際、この遊園地のオーナーはウォルト・ディズニーに直接面会して、遊園地経営のノウハウを教えてもらっているのです。 ただ、ウォルト・ディズニーとしては、当時(1961年)日本にディズニーランドを作る目的はなくて、あくまでも日本人が日本に独自の遊園地を作ることに協力するというスタンスだったのです。 東京ディズニーランド(TDL)が開園したのは1983年のことです。 しかし、ロスの「ディズニーランド」は開園してから、さまざまなトラブルに見舞われました。 まず、来場者の異常な人数に伴う待ち時間のとんでもない長さと、駐車場が常に満車と云うこと。 そして、遊戯機器も次々に故障の連続で、けして順調なオープニングではなかったらしい。 ミッキーをデザインしたのはアニメーターのアブ・アイワークスです。 彼は多くのスタッフが作画に関わるアニメーション作品において、円滑に、かつ素早く作画する目的で、円定規と楕円定規で簡単に描けるようにデザインしたのです。 アブ・アイワークスは1928年のディズニーアニメ「蒸気船ウィリー」からミッキーの作画を担当していて、1929年にはアニメの監督を務めています。 途中から特殊効果の担当になり、1952年の「シンデレラ」、53年の「ふしぎの国のアリス」、55年の「ピーター・パン」、56年の「わんわん物語」、60年の「眠れる森の美女」、62年の「101匹わんちゃん」、65年の「メリー・ポピンズ」まで、ディズニーのアニメと実写映画で名作と呼ばれるものには全て特殊効果で関わってます。 それで「蒸気船ウィリー」公開日の11月18日は、ミッキーとミニーの誕生日としているのです。 Mickey Mouse Steamboat Willie 1928 「蒸気船ウィリー」当時のミッキーはこんな感じ。 同じころの着ぐるみに至っては、今どきの中国のニセモノかと思うほど。 1930年のミッキーとミニー。 あの~かなり恐いんですけど(笑) 1934年の感謝祭に登場したミッキー。 下の画像は同じ1934年のミッキーとミニー。 だんだん現代に近くなってきています。 こっちは1955年。あれ~先祖返りしたような。 1959年に至っても、まだこんなです。 1961年のミッキーとミニー。 やっぱ顔が現代のとチョト違いますね。 こっちは1962年です。 1970年!日本では大阪万博の開催された年です。 かなり現代のに近づきました。 現代のと比較すると大きな変遷ですね。 風説で「ウォルトは飼いならしたネズミをよく研究し、彼が醜いと思っていた耳、口、足などを大きくしポイントを付け1927年にミッキーマウスを考案した」と云う話しがよく流れています。 このエピソードは架空の話です。 だって、そもそもウォルト・ディズニーはプロデューサーで、アニメーターではありませんから。 前述のようにデザインをしたのはアブ・アイワークスです。 ミッキーは耳の形を整えるため耳をワックス付けしているらしいですね。 そして、耳の中まで脳みそがつまっているらしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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