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テーマ:猫のいる生活(136448)
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19世紀初頭にフランス生まれで、イギリスで活躍した技術者がいました。
サー・マーク・イザムバード・ブルネル。 ポーツマスの海軍工廠でイギリス海軍向けの滑車の生産法を確立したことで知られています。 彼が採用した方法はアセンブリー・ラインと呼ばれ、現代のライン(流れ作業)生産方式の先駆けとなりました。 彼のもっとも有名な話は「フナクイムシが木材にあけた穴」を見てシールド工法のアイディアを思いついたことです。 これが世界初の河川の下を通るトンネル「テムズトンネル」の工事に応用されました。 結局、テムズトンネルの工事では出水事故で負傷したためその仕事から離れました。 しかし、彼は父親をしのぐ異才の持ち主で、あっと驚くような鉄道、船、橋を建造し、BBCの行った「100人のもっとも偉大な英国人」の投票で堂々第2位に選ばれました。 それがイザムバード・キングダム・ブルネルです。 イザムバード・キングダム・ブルネル(以下イザムバード)の偉業のひとつが大西洋横断のために1837年当時、世界最大の蒸気船「グレート・ウェスタン号」を建造したことです。 彼は、1818年以来"帆船"で運営されてきた大西洋横断定期船はやがて"蒸気船"に置き換わると考えました。 なぜなら1850年代に入るころ、オーストラリアでゴールドラッシュが起こり、イギリスとオーストラリアを結ぶ長距離航路への需要が高まったのですが、当時の蒸気船ではイギリスからオーストラリアへ向かうためには、途中のケープタウンで燃料の石炭を補給する必要がありました。 そしてこの石炭はイギリスからケープタウンまで帆船で運ばなければならず、確保には手間がかかったのです。 そのためこの航路では蒸気船よりも帆船のほうが主流だったのですね。 そこに目を付けたのが、イザムバードです。 彼は以前から「船に積める燃料などの容量は船の長さの3乗に比例し、必要な燃料は船の長さの2乗に比例する」という理論の持ち主でした。 つまり、大きい船ほど経済的だと。 イザムバードはこの理論をもとに、グレートウェスタンを設計したのです。 模型写真で分かる通り、四本マストの補助用の帆も備え付けられていますが、実際には使われていません。 巨大なボイラーはグレート・ウェスタンの船体の約半分を占めましたが、それでも乗客数148名、船客サロンは奥行き75フィート(約23m )、最大幅34フィート(約10m )ありました。 総トン数は2,340トン、全長212フィート(約65m )。 大西洋を横断する処女航海では、24名の1等船室乗客を乗せてました。 運賃は35ギニーで、これは当時の労働階級の年収を上回る金額でした。 イザムバードはさらに1843年、鋼製の船体の蒸気船「グレート・ブリテン」(3,443t )を建造してます。 そして1852年にはさらに巨大な「グレート・イースタン」(22,500t )を建造してるのですが、グレート・イースタンのお話しは最後に。 グレート・ブリテン号はデビュー当時、旧型の外輪船でしたが、その後換装し、世界初の実用大型スクリュー推進船として革命的な役割を演じました。 乗客数は外輪船当時260人、スクリュー船になってからは210人。 当時はマンモス客船として世界的な脚光を浴びました。 イザムバードの業績はなにも船だけではありません。 1840年代、グレート・ウェスタン鉄道の建設に尽力しましたが、その成果のひとつが安定性と乗客の乗り心地の改善のために2,140mm の広軌を採用したことです。 グレート・ウェスタン鉄道はロンドンからイングランドの西の突端までをつなぐ鉄道で、途中、起伏の多いデヴォンを通らなければなりませんでした。 そこでイザムバードは勾配のある山で列車を走らせるための新たな方法を試そうとしました。 それが「大気圧鉄道」です。 これは、機関車で牽引するのではなく、備えつけられたスチームエンジンがレールの間に敷かれたパイプの中に真空状態を作り、それが列車を引っ張る仕組みになっていました。 時速32km ほどで全車両を引っ張ることができたのですが致命的な欠陥があったのです。 パイプには柔軟性のある密閉剤が必要でしたが、当時手に入る材料は革しかありませんでした。 革を柔軟に保つ唯一の方法は、定期的に獣脂でコーティングすることです。 脂に浸した革はネズミの大好物だったので、年中ネズミが革の密閉剤をかじってしまい、そのたびに列車が止まってしまったのです。 1年もたたないうちに、イザムバードは失敗を認め、もとの蒸気機関車に戻しました。 船の話に戻しましょう。 1852年にイザムバード最後の大仕事「グレート・イースタン」を建造しました。 グレート・イースタンは19世紀最大級の蒸気船です。 全長200m 超という、それまで最大級の蒸気船と比較しても6倍近い大きさでした。 解体された1889年の時点でもまだ世界最大の地位にあった船です。 船体は鉄板を使用した2重構造で、鉄板の厚さは外側が2cm 、内側が1.5cm 、板の間隔は85cm 。 船体には横方向に10ヶ所、縦方向に2ヶ所の内壁を作り水密性を確保しています。 船内は1等800名、2等2,000名、3等1,200名の計4,000名が収容可能。 また、長さ20m 、幅14m 、高さ4m のグランド・サロンもありました。 また、グレート・ウェスタンと同様に蒸気船でありながら6本のマストをもっていましたが、19世紀の蒸気船では帆を持っていること自体は珍しくなかったのです。 しかし帆の大きさは5,400平方メートルと、この船を動かすには大きさが足りず、ほとんど使われなかったため、後に船倉に収納されました。 それにも関わらず、グレート・イースタンがサザンプトンからニューヨークへ向けての処女航海の乗客はたったの43名でした。 それには進水までのグレート・イースタンの不幸な歴史が災いして市民が乗船を敬遠したからです。 当初、巨大な蒸気船の建造工事は話題となり、現場には多くの見物客が押し寄せ、新聞や雑誌でも多く取り上げられました。 工事は順調にいったかに見えましたが、イザムバードと建造主任の間がしだいにこじれるようになりました。 そして建設途中の1856年2月、経営上の問題から突然、建造主任が引退し、作業員は全員解雇されてしまったのです。 作業は3ヶ月にわたり中断。 工事再開後はイザムバード自らが工事主任の役割を引き継ぎ、1857年、進水可能な状態までこぎつけました。 ところが進水作業は船の巨大さで失敗し、作業中の事故で5名の負傷者が出てしまいました。 1858年1月30日、ようやく進水に成功しました。 船はそのままデトフォードのドックに係留され、進水後の工事を行うことになりました。 ところが、これまでの工事の遅れなどで、すでに予算の2倍近い金額が費やされていて、イースタン蒸気航海会社は破産の危機を迎えたのです。 なんとかイザムバードが走り回って別会社を立ち上げ、資本金34万ポンドを募ることでこの事態を乗り切りました。 しかしイザムバードは連日の過労がたたり、長期にわたる療養を余儀なくされてしまったのです。 1859年になって、やっとイザムバードは現場復帰しました。 そして試運転を行った。 しかし試運転の前日、イザムバードは船内の最終点検を行っていた時、心臓発作により甲板上で倒れ病院へ運ばれたのです。 試運転は多くの見物人の中で行われました。 ところが、給水管が密閉された状態でボイラー水が加熱されたことが原因で、運転中に煙突が吹き飛び、作業員に死者数名、負傷者十数名を出す大災害となってしまったのです。 イザムバードは病院でこの事故を聞き、9月15日、53歳で息を引き取りました。 グレート・イースタンの処女航海後も、乗船率はかんばしくありませんでした。 大西洋航路は当時多数の船が就航している激戦航路であり、そこにグレート・イースタンを満員にできるほどの乗客を新たに確保することはできなかったのです。 さらに、1861年には大嵐にあい、修繕に8ヶ月を要する大きな被害を出したと思ったら、翌年には地図に載っていない暗礁にぶつかり、船底に穴をあけるという事故まで経験しました。 そして1864年に会社は倒産し、グレート・イースタンは競売にかけられることになってしまったのです。 グレート・イースタンが競売にかけられていたころ、英国では大西洋横断電信ケーブルの敷設計画が進められていました。 ケーブルを敷設するためには大型の船が必要でした。 そしてグレート・イースタンが目を付けられたのです。 こうしてグレート・イースタンは大西洋横断電信ケーブルの敷設作業を行い、ヨーロッパと北アメリカ大陸は電信網で結ばれました。 その後も大西洋横断電信ケーブルや、スエズからムンバイへのケーブル敷設に使用されました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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