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テーマ:猫のいる生活(136830)
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時の大統領シャルル・ド・ゴールと強引に面談した女性がいます。
ド・ゴールは彼女が祖国の名において行った約束「古代ヌビアの遺跡をフランスが救う」ことについて全く知らなかったのです。 それでド・ゴールは「奥様、どうしてフランスが私の許可もなしに遺跡を救うと云えるのですか?」と詰問しました。 しかし、女性の剣幕と気迫に押されて彼は遺跡保全に同意したのです。 エジプトのナイル川流域に巨大なアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったのは20世紀半ばのことです。 毎年のように起こるナイル川の氾濫防止と農業用水の確保が目的でした。 大規模な工事を伴うこのダム建設には巨額の資金が必要で、当初エジプト政府はイギリスとアメリカから融資の約束を取り付けていました。 ところがエジプト大統領ナセルは、ダム建設の資金確保のためにイギリスとフランスが管理していたスエズ運河の国有化を宣言してしまいます。 これに反発したイギリスとフランス、イスラエルはエジプトへの軍事侵攻を開始。 それが「第2次中東戦争(スエズ動乱)」です。 1956年のことで、英仏軍とイスラエル軍はスエズ運河地帯を占領した上、空爆も開始しました。 しかし、エジプト軍民の強烈な抵抗と国際世論の激しい非難に直面し占領は失敗。 英仏軍とイスラエル軍は同年、撤退を余儀なくされたのです。 しかし第2次中東戦争によって、イギリスやアメリカは、アスワン・ハイ・ダムの建設融資を撤回してしまいます。 そのスキに乗じてエジプトに取り入ったのがソ連です。 アスワン・ハイ・ダムはソ連の援助で1960年に着工しますが、その一方で大きな問題が発生しました。 ダムの周辺には「アブ・シンベル神殿」に代表されるヌビア遺跡群が点在するのですが、ダムが完成すれば水の底に沈んでしまうことが分かったのです。 2015年、彼女は97歳の天寿を全うしましまた。 亡くなった当時フランス大統領だったサルコジは、「ナイル川の偉大な女性」と彼女に敬意を表してます。 彼女の名前はクリスティアーヌ・デロッシュ・ノーブルクール。 フランス人に古代エジプトの人気を高めた、著名で世界初の女性エジプト学者です。 彼女が初めてエジプトに興味をもったのは9歳のとき。 ハワード カーターによるツタンカーメン墓の発見に魅了されて以来です。 それから時が経って学業を終了させると、ルーヴル美術館のエジプト考古学部門に加わったのですね。 ところが第2次大戦中の1940年に、フランス・レジスタンスの一員だった彼女は、スパイ容疑でナチスに囚われてしまいます。 ナチスの尋問官と対峙するデロシュ・ノーブルクール。 彼女はドイツ人の質問に答えることを拒否し、彼らのマナーの悪さを叱責したのです。 彼女の横柄な態度に言葉を失い、確固たる証拠も見つけることができなかったナチスは、結局彼女を釈放しました。 ナチスに捕まるまでに、彼女はルーブル美術館のエジプト秘宝をフランスの自由地域に隠してたのです。 実際にアブ・シンベル神殿をダムの水の底に沈むのを食い止めたのはユネスコです。 日本を始め、世界50カ国が資金提供をおこない、専門の学者や技術者を派遣しました。 しかし、エジプトは当初ユネスコに支援を要請することは考えつかなかったのです。 エジプト政府の目には、宝の喪失は嘆かわしいことだけど、アスワン・ハイ・ダム建設によって農業を促進し、エジプトの爆発的に増加する人口に電力を供給するためには必要不可欠だったのですね。 ダム建設プロジェクトに携ったある若いエンジニアは、「我々には、未来を救うために過去を忘れること以外に何が残されているでしょうか?」と語ってます。 そんな後ろ向きのエジプト政府を動かしたのがデロッシュ・ノーブルクールです。 彼女はエジプト政府に対し、文化遺産の壊滅的な損失を諦めないよう訴え続けました。 「砂漠で説教しているようなものだった」と彼女は振り返ります。 私はいつも「時間の無駄だ」と云われ続けてきました。 なぜあなたはこんなに熱心に保存に熱をあげるのだ。これらの遺跡はフランスの記念碑ですらないぢゃないかと。 彼女にとって、その議論はナンセンスでした。 「私は世界市民として、人類の名誉のために戦っていたのです」。 ようやくエジプト政府も彼女の説得に耳をかし、ユネスコにスーダンとエジプト共同で支援を要請。 古代ヌビアの神殿を救うための22年間にわたるキャンペーンを開始したのは1959年のことです。 そのときまでにユネスコには彼女から、アスワン・ハイ・ダムによって古代ヌビアの遺跡が水没の可能性があり、即時、手を打つべしとの報告があがってました。 とは云え遺跡の保存をどのようにしたのか? 簡単に云えば「移転」です。 正確に分割された遺跡を遺跡の場所から約60m 上方、ナイル川から210m 離れた丘へ、コンクリート製のドームを基盤とする形で移築されたのです。 現在ではアスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいるアブシンベル神殿。 ユネスコ「世界遺産」の創設は、この大工事がキッカケだったのです。 そして、これには別の効果もあったのです。 ヌビアの遺跡を救う国際キャンペーンでのデロシュ・ノーブルクールとフランスの役割により、1956年の第2次中東戦争以来、悪化していたフランスとエジプトの関係が改善したのです。 1972年、ヌビアの遺跡を救う国際キャンペーンに対するフランスの貢献を讃えて、サダト大統領はルーヴル美術館にアメンホテプ4世の胸像展示を許可しました。 クリスティアーヌ・デロッシュ=ノーブルクールがいなかったら、20を超える数千年前の遺跡が、巨大な新しいダムによって水没していたのですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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