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釈迦楽

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July 8, 2018
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カテゴリ:教授の読書日記
ロビン・ノーウッド著、落合恵子訳『愛しすぎる女たち』(原題:Women Who Love Too Much, 1985)を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。

 本書は後に「WWL2M」という略称で語り継がれるまでに全米でベストセラーになった自己啓発本でありまして、日本風に言えば「だめんず・うぉ~か~」(@倉田真由美)の病理とその治療法を示した本。男からすると理解しがたい・・・いや、ノーマルな女性にとっても理解しがたいでしょうが・・・「ダメ男」とばっかり常習的に付き合ってしまって、落ちるところまで落ちてしまう女性達が、一体どういう理由でそうなってしまうのかを、ものの見事に分析しております。

 で、本書によれば、そういう女性達に共通する状況として、問題アリアリの家族の中で幼少期を過ごす、ということがあると。

 例えば、お父さんがアル中だったり、DVを振るう奴だったり、はたまた実の娘に性的いたずらを仕掛ける奴だったり。

 で、そもそもそういう奴がいるという時点で大問題なわけですが、この状況をさらに悪化させるのが、母親であったりする。つまり、そういう悪い夫の在り方を見て見ぬふりをしたりするわけですよ。すると、娘としては、助けを求めることができなくなるわけで、逆に、そのことで自分を責めたりするようになってしまう。

 あるいは、逆にそういう夫と毎日大喧嘩する妻もいる。来る日も来る日も大喧嘩。その場合、娘としてはそういう日常を受け入れてしまったりする。そして、例えば自分が学校でいい成績を取ったり、家族の中で剽軽者を演じることで、かすがいになろうと必死になったりする。

 とまあ、本来、両親に愛されて育つべき時期にそういう経験をしてしまうと、娘ってのは「自分は最低の家庭に育った」という風には考えず、そういう明白な事実は否認してしまって、逆に「自分が頑張ってみんなの面倒を見なくちゃ」という考えかたが身についてしまうんですな。

 で、この状況で結婚適齢期になろうものなら、あーた、大変なことになるわけですよ。

 つまりね、よりによってダメな男を探し出しては、「この人には私がついていて、面倒を見てやらなきゃダメなんだ」という風に感じ、その使命を愛と勘違いして情熱的に結婚しちゃったりするわけ。

 で、ダメ男の方も、そういうタイプの女を本能的に見つけちゃうんですな。で、男の方は面倒見てもらいたいと思っていて、女の方では面倒見たいと思っているわけだから、双方共に「これは運命的な出会いだ」と思っちゃう。

 かくして、以後、女の方は男の面倒を見まくる。男が仕事をしないのは、まだ自分の適性を見い出していないから当然であって、それを見つけるために大学に行かせてやろう、とか、そういう風に思っちゃうんですな。それでどんどん甘やかせてしまう。でも、それは単に甘やかせているわけではなくて、むしろ男をがんじがらめに「管理」しようと思っているわけ。で、男を自分の思うように行動させようと必死になる。そういう自分の行動を「愛」だと信じつつ、その愛に邁進してしまう。

 ところが、女が管理しようとすればするほど、男はその束縛から逃げようとしますから、彼女をほったらかして、別な女と浮気したりするわけよ。

 で、ここがまた幼少期の繰り返しなんですが、明らかに夫が浮気していても、それを認めてしまうと傷つくことを知っているので、女はそれを見て見ぬふりをするわけね。その事実を否認する。ちょうど、自分の母親がそうであったように。そして、さらに自分が頑張れば、夫は自分のもとに帰ってきてくれるんじゃないかと思う。そして更に頑張って夫を管理しようとし、さらに夫に愛想を尽かされ、さらに傷つくことになる。

 だけど、傷つくというのは、その女にとって、ある意味、自衛手段でもあるんですな。

 つまり、彼女はもともと幼少期の頃からうつ病を発症しそうな環境に育ったわけですよ。だから、通常であればこの時点でうつになってもおかしくない。だけど、逆にそういうダメ夫と結婚して激しく傷ついたりすることによって、痛みによって痛みを制すというのか、そのことでうつになることを辛うじて防いでいたりするわけね。

 だから、この状況から逃げるということは考えられないわけ。地獄の中に居ないと、さらなる地獄が待っているんだもん。だから、自ら進んで地獄の中に入って行こうとする。

 これが、要するに、「愛しすぎる女たち」の実態であると。まさに地獄絵ね。

 で、そんな地獄絵なのに、それを地獄絵と判断できない理由の一端は、世間一般に流通する「愛」についての概念だと、ノーウッドは指摘します。つまり、愛というのは苦しいものだ、苦しければ苦しいほど、その愛は崇高だ、的な概念を、映画やドラマや流行歌なんかが繰り返し提示する。だから、そういう状況にあっても、女たちはそれを異常だとは思わないと。

 で、じゃあ、そういう地獄絵の中で苦しむ女性達を救うにはどうすればいいか?

 まず、本人が自ら助けを求めようと思わないとダメだ、とノーウッドは言います。他人がいくら言ったって本人が「アレ? ちょっと私、おかしくない?」と思っていないんだったら、治療しても効果がない。

 だけど、本人が自分の状況はちょっとおかしいんじゃないかと気づきさえすれば、問題解決の方法はあるんですな。

 カウンセリングによって、彼女のこれまでの地獄絵のパターンを認識させ、そうなる原因を作った幼少期の家族環境を客観視させ、夫なり彼氏なり、とにかく相手を管理しようとしている癖を把握させる。その上で、そうした管理欲を放棄させ、相手のためにしてきたあらゆる努力をやめて、その分、自分自身の面倒を見ることにその努力分を費やすようにさせる。自分自身を愛せなかったら、対人関係でフェアな関係を築けるはずはないので。

 ところが、こういう「愛しすぎる女たち」にとって、相手の面倒を見ない、というのは、とてつもない苦痛なんだそうで。

 実際、ダメ男が何かのきっかけで更生し、良い夫になったりすると、「愛しすぎる女たち」としては、その男に興味がもてなくなり、彼と別れて他のダメ男を探してしまったりするというのですから、根は深いんですな。

 だから、ダメ男と付き合わない、ダメ男の面倒を見ない、というのは、彼女たちにとってはものすごい努力を要することなんです。相手を管理することでしか、自分の存在意義を感じられないのですからね。

 だけど、そういう性癖を克服しない限り、絶対にこの地獄絵からは逃れられない。

 そこで、専門家とのカウンセリングで、自分が陥っている地獄のことが分かったら、次のステップとして、同じような状況に苦しんできた同性の仲間と自己啓発のためのグループを作って、定期的に会合に参加し、元の地獄に戻らないよう、助け合わなければならない。この種の助け合いが、地獄からの脱出には必須であるとノーウッドは言います。

 ま、とにかく、「愛しすぎる女たち」がノーマルな生活を手に入れるのは、アル中患者がアルコールから手を切るとか、麻薬常習者が麻薬から縁を切るのと同様、ものすごい苦痛と努力を要すると。でも、アル中患者・麻薬常習者と同じく、「愛しすぎる女たち」も、その苦痛を乗り越え、努力を続ければ必ずやノーマルな人間に戻れる。それは確かなんだから、頑張りなさいと。

 ま、本書が数多くの例を挙げながら雄弁に語っているのはそういうことでございます。

 本書が出版されたのは1985年ですが、その少し前、1981年に出版されてベストセラーになったのがコレット・ダウリングの書いた『シンデレラ・コンプレックス』という本で、これは「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的な願望があるために、本来ある自分の能力を発揮できず、常に他人(=夫)に寄りかかってしまう女性たちの状況を指摘した本。その意味で本書『WWL2M』は、その逆を描いた本と言っていい。

 というと、1980年代というのは、管理されたがったり、管理したがったり、女ってのは面倒臭い生き物だ、ということが明らかにされた時代ということになりましょうかね。でも、それは必ずしも女性自身のせいではなくて、社会が、アメリカ文化が、そういう風に女性をしつけたからだと。

 その意味で、これら両書は、先行するベティ・フリーダンの『女らしさの神話』の流れを汲む、「社会批判系女性向け自己啓発本」と言うことができる・・・かな。

 あ、あとね、この本、「愛しすぎる女たち」の問題をアル中とか薬中の問題に近いモノとして扱っているのですが、この視点は結構重要です。というのは、それまでこういう恋愛問題/結婚問題のゴタゴタというのは、あまりにも個人的な問題過ぎて、恥しくて公けに出来ない、という風潮があったんですな。だけど、それを本書は「アル中・薬中」と同レベルの問題として、つまり一種の病気として扱うことによって、恥しくないもの、そして治療可能なものに変換した。で、本書以後、この種の問題が自己啓発本の中で頻繁に言及されるようになる(例えば Melody Beattie の『Codependent No More』(1986) とか)発端にもなったのですから、本書の存在意義というのは、なかなか大きかったわけ。

 ま、でも、そういう系統分類や存在意義の観点は別にしても、この本、なかなか説得力があります。特に、本書が描くような「愛しすぎる女たち」の一人だと自覚があるようなだめんず・うぉ~か~さんたちには、必読の本と言っていいのではないでしょうか。



愛しすぎる女たち (中公文庫) [ ロビン・ノーウッド ]


 しかし、本書には一つ、重大な欠陥があります。

 それはロビン・ノーウッドに責任があるのではなく、本書の訳者・落合恵子氏に責任がある。

 本書の随所に訳者・落合恵子氏による「訳注」が、本文に直接挿入する形でつけられているのですが、これが実際には「訳注」ではなく、落合氏の意見なんです。

 要するにノーウッド氏の本文を翻訳しているうちにエキサイトしてしまったのか、落合恵子さんが勝手に自分の見解を付け加えたり、逆に「こういう書き方は気に入らないと言っておこう」とか言って批判したりするわけ。

 そんな、自分の意見だの本書に対する批判を本文に挿入する形で勝手にくっつけるなんて、翻訳者の分を越えた非常識な行為であって、断じて許されるものではございません。また、もし翻訳者がそういう愚行に出たとしたら、編集者は体を張ってでも止めなくてはならない。

 あ、あとついでに指摘しておきますが、本書巻末の「あとがき」の中で、本書のペーパーバック版の版元が「Simon & Solueten」社であると記してありますが、こんな名前の出版社は存在しません。それを言うなら「Simon & Schuster」ね。あと、本書のサブタイトルの原語は「When you keep wishing and hoping, he'll change」ではなく、「When You Keep Wishing and Hoping He'll Change」です。カンマなんてついてない。「He'll Change」は「Wishing and Hoping」の目的節だからね。どちらも、ちょっと確認すれば誤りを防げるはずなのに。

 色々な意味で、レモンちゃん(昭和生まれなら知っている、落合恵子氏のあだ名)と、この本の編集者には猛省を促しておきましょう。





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Last updated  July 8, 2018 07:24:07 PM
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Comments

釈迦楽@ Re[3]:クタクタの誕生日(04/09) がいとさんへ  いやいや、あの頃が僕に…
がいと@ Re[2]:クタクタの誕生日(04/09) せんせい おぉ、そんなこともありました…
釈迦楽@ Re[1]:クタクタの誕生日(04/09) がいとさんへ  昔、君が正門前のアパー…
がいと@ Re:クタクタの誕生日(04/09) せんせい その近くです! 魚沼から半分近…
釈迦楽@ Re[1]:クタクタの誕生日(04/09) よびなみさんへ  ありがとうございまー…

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