ホールデンの「you」
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の冒頭、主人公にして語り手のホールデンが「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、先ず、僕がどこで生れたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな」(野崎孝訳)と語り始めるのは有名だと思うのですけど、問題は冒頭の「もしも君が」という部分でありまして。 これ、原文だと「If you really want to hear about it, 」となっているので、翻訳者の野崎さんはこの「you」を「君」と訳したわけですな。ちなみに村上春樹訳ですと「こうして話を始めるとなると、君はまず最初に・・・」となっているので、村上さんも「you」を「君」と訳している点では変わらないわけね。 では、このホールデンが語りかけている「you」は誰なんだろうっていうね。 それについては、村上春樹さんと柴田元幸さんの対談(『サリンジャー戦記』)の中に言及がある。引用しますと:村上: 僕はそれとは逆に、この小説における you という架空の「語りかけられ手」は、作品にとって以外に大きな意味を持っているんじゃないかなと、テキストを読んでみてあらためて感じたんです。じゃあこの「君」っていったい誰なんだ、というのも小説のひとつの仕掛けみたいになっている部分もあるし。柴田: それは、僕も村上訳を拝見していちばん思ったことですね。野崎訳のほうが、どちらかというと、独りごと的なんですね。村上さんの訳は、ホールデンがだれかに語りかけている。でも、その語りかけている you というのがどこにいるのかというのが、問題というか、すぐにはわからないわけですよね。そこは訳の違いとしてすごく面白いと思いました。 (25頁) その後、二人の対話の中で、ホールデンが語りかけている「君」は、ホールデンのオルターエゴなんじゃないかとか、セラピストなんじゃないかとか、あるいは、ホールデンが親しく「君」と呼びかけている人は本当は存在しなくて、それこそがホールデンの孤独の内実なんじゃないかとか、様々に推測されていく。 まあ、それはいいとしましょう。人それぞれの考え方だからね。 しかし、個人的な感想から言うと、私はこの「君」というのが誰を指しているのか、疑問に思ったことが一度もない。だから、上で村上さんと柴田さんが云々している類の問いは、私の中には存在しないのね。 だって、この「君」が誰を指しているのか、私は知っているんだから。 誰だと思う? 私だよ。釈迦楽、釈迦楽。ホールデンは、私・釈迦楽に向ってこの打ち明け話をしているのよ。そんなの、当たり前じゃん。 普通、そう考えるんじゃないの? この小説を読んだ世界中の若者が、「この『君』とは、私のことだ」と思って読んでいたのに決まっているじゃないの。 まあ、それはいいとしましょう。人それぞれの考え方だからね。 ところで、実は我が国には野崎訳・村上訳の他にもう一種類、『ライ麦畑』の訳が存在する。それは橋本福夫訳の『危険な年齢』という訳本で、ダヴィッド社から1952年12月20日に初版が発行されたもの。作者は「J・D・サリンガー」となっているところが面白いんですが。 しかし、1952年12月って、早いねえ! だってこの小説がアメリカで出版されたのは1951年の7月16日だよ。1年ちょいで日本語版が出たということじゃん。しかも、日本語版の出版は12月だけど、橋本福夫さんのあとがきは11月25日付けになっているから、実際の訳出作業はもっと早い段階に終っていたことになる。 で、この訳の冒頭の一節がどうなっているかと言いますと: 諸君がほんとうに僕の話を聞きたがっているとしても、諸君の知りたがるのは、きまって、第一に、僕がどこで生まれ、幼年時代はどんなふうだったとか、両親はどんな職業についていて、僕を生む前はどんな生活をしていたとか、何だとかそういったような、デーヴィッド・カッパーフィールド式の身の上話なんだろうが、正直なはなし、僕はそんなことを喋りたてる気にはなれないんだ。(3頁) となっているんですな。 気がついた? そう、橋本訳は「you」を「諸君」と訳しているのよ。つまり複数形で訳している。 これ、言葉を補えば、「読者諸君」という意味ですよね? 私が思うに、ここが橋本訳の決定的な欠陥だったのではないかと。 だって「読者諸君」と言ってしまったら、ホールデンは直接「私(=一人一人の読者)」に語り掛けているのではなく、本としての体裁を意識していることになっちゃうじゃないですか。映画や演劇の中で、芝居をしている俳優が、突然、観客に向って話しかけてくるような演出がありますが、ちょっとあれを思い出させるというか。「今、舞台(スクリーン)の上で進行中の出来事は、お芝居です」ということを示してしまっている。 これじゃ、ダメなんだ。・・・と、私は思うわけですよ。これでは「ホールデンが、私に直接語り掛けている」という感覚が持てない。 だから橋本訳は長生きせず、その後に出た野崎訳で『ライ麦畑』の真価が表に出たのではないか、というのが、私の見立てね。 その意味で、村上さん・柴田さんが「ホールデンが語り掛けている『you』は誰なんだ?」と問うのに対し、私はそれは問題にせず、むしろ「ホールデンが語り掛けている『you』は単数なのか、複数なのか?」と問う。そしてその答えは「単数に決まってんだろ!」ということで。 ま、そんなことをつらつら考えているわけですよ。