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依田健吾のセックス、いいちこ、ロックンロール

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2010.05.12
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カテゴリ:マンガ
世の中で最も寿命の短い職業とは、もしかしたらギャグマンガの作家ではないか、と最近思っている。

当たればデカい、というのがマンガ家なのだが、ことギャグマンガというジャンルは作家の消耗が激しい分野だと思うのだ。
アイドルなんかも旬は短いようだが、年齢を重ねたら重ねたで需要が途切れない。だが作家は自分の内面から出るアイデアで商売するため、枯渇したら終わり、というシビアな面を持っているのだ。

これはどんな作家にも言えることだが、「ギャグマンガ」と限定した場合とたんに現実味を帯びてくる。マンガにせよ音楽家にせよ、仕事を選ばなければ本来どうにでもなるのだが、「ギャグ」というジャンルだけはそうはいかないようである。

かつて雑誌「クイック・ジャパン」で連載され、後に単行本化された「消えた漫画家」(太田出版)でインタビューを受けていた「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめは「ギャグを生み出すことによる体力の限界」を原因とはっきり述べているが、「読者に飽きられない新鮮なギャグ」なんていうのは青春真っ只中のロック同様、若い時の一瞬の輝きのような価値が全てなのかもしれない。

ギャグ作家が生き延びる方法には二つあると考えられる。
一つは「マンネリ化を恐れずに自分のスタイルを貫く」ことだ。
「こち亀」の秋本治はラモーンズの曲のように「金太郎飴」的な内容でもはや「『サザエさん』や『コボちゃん』のような新聞のマンガ並に当たり前にそこにある」という状態だし、「伝染るんです」(このタイトル、若い子には意味が分からないだろうな)の吉田戦車や「ピューと吹く!ジャガー」のうすた京介やおおひなたごうは相変わらずだし、もっと言うと田中圭一なんてサラリーマンをしながら下品なマンガを20年以上描き続けて、しかもあとがきに毎回のように「またお下劣になってしまった」と言い訳を繰り返すし、という状態である。
だがこれらの作家が読者に飽きられているかといえばまったくそのようなことはなく、彼らの「定型」が唯一無二のものだからこそ、だ。
「こち亀」は時代を的確に捉える意欲を失っていないし(スタッフが優秀なのかもしれないが)、吉田戦車は「スポーツ」「恋愛」とカテゴリーを固定した上で挑戦を続けている。田中圭一の模写力に至ってはそれだけで一つの芸として完成されていて目を見張るものがあるではないか。
そして、「東大一直線」「おぼっちゃまくん」が大ヒットした小林よしのりも、基本的には路線を変えていない。世の中の「右翼ブーム」を牽引した「ゴーマニズム宣言」は一見社会派の作品で、それまでのギャグ作品と異なるようだが、「ゴー宣」以降の小林が何を表現しているかというと結局は「エンターテイメントとしての思想」であり、子供にうけるギャグを生み出せない年齢になった代償として、自身が身をもって主人公=エンターテイナーとなっているのである。極端な思想、及びその主張はもはやギャグの領域だ(無論批判したり右傾化をからかっているのではない)。彼はある意味ギャグマンガ家の鑑だ。「こち亀」第一巻に巻末コメントを寄せた男だけのことはある。

ギャグ作家のもう一つの生き方は、思い切って作風を変えることだ。「行け!稲中卓球部」で一世を風靡した古谷実は、徐々に人間の内面を追求する方向に向かって第一線で活躍し続けているし、「幕張」でうすた京介とギャグの二大巨頭を築いた木田康明は講談社に移籍した後編集部に翻弄されながらも心理的なトリックを利用した格闘マンガ「喧嘩商売」で成功した(単行本化に伴う加筆のギャグセンスは相変わらずだ)。
彼らに共通しているのは、当時から「単に飛び道具的にギャグを使う」のではなく、人間をよく観察し、心理的に共感出来るギャグを描いていたことにある(特に古谷の「稲中」に登場する、「いかにもいじめられそうな」脇役の描写は秀逸だ)。
人間をよく観察し、「笑ってはいけないけれど笑ってしまう」ような場面をギャグとして描いていたように思う。そういう意味では、彼らにとって「ギャグマンガ」というのは必ずしも必然ではなかったのかもしれない。
ここまで書いて思い出したが、そういえば鳥山明も「ギャグマンガ」に分類される作家だった。「ドラゴンボール」も初期の頃は「Dr.スランプ」の延長線上にあったが、メカに関する豊富な知識からか世界観が広がったことによってギャグにとどまらなくなったのだろう。鳥島氏をはじめとする編集者の能力も大きそうだが。あ、「キン肉マン」も最初はギャグマンガだったな

「次はもっと過激に!」と求められる、「紅白における小林幸子の衣装」のような状況にあるギャグマンガ界だが、つぶれてしまう原因は最終的には作家のストイックさにあるような気がする。
不幸なギャグマンガ家の代表といえば、「コージ苑」「かってにシロクマ」が大ヒットした相原コージだ。「コージ苑」の時点で彼の観察眼や表現力が完成されてしまったがために、90年代に入ってからは泣かず飛ばずで、読者を置いて行く形で実験を繰り返して消えていってしまった。若いスタッフでも使って時代の空気を利用しながら「コージ苑」の路線を続けていれば吉田戦車くらいの地位は保てただろうが、同じことを続けることに納得出来なかったのだろう。2000年代に入って「スピリッツ」で(まるでお情けのように)掲載された連載「何がオモロイの?」はそんな彼の生真面目さが空回りしていて、読んでいて痛々しかった。

このようにギャグマンガの作家は「常に死と隣り合わせ」のような状態なのだ。「ストップ!ひばりくん」を絶頂期に突然やめてしまった江口寿司(本作は個人的にこの「当たり前に続きそうな」終わり方がベストだったと思っている)なんかは日本の週刊マンガ雑誌のシステムに異を唱え、その後「ロッキング・オン」なんかでチョロチョロ作品を発表した後は「マンガを描かないマンガ家」という特殊な地位を得ているが、要するに単に「面白い」以上の才能がなければやっていけない分野なのかもしれない。原作をつけるわけにもいかず、また若手が手っ取り早く(一読者としてはそういう印象がある)成功しようと多数参入してくる分野である。
常々「日本のマンガはレベルが高すぎて、過去をなぞるだけである程度のクオリティを保ててしまう」ことに疑問を感じている私であるが、何のことはない、ギャグマンガの世界は既にそうしたことに厳しい状況が20年以上続いているのだった。


【中古】  ◆ コージ苑 全3版 相原コージ 全巻 完結





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Last updated  2010.05.13 00:17:22
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