北 か ら の 蒙 古 襲 来
マ モ ー
2004年のある日、私は東京へ向かう新幹線の車中で、前の椅子の背もたれにあった冊子・トランヴェールに手を伸ばした。単に時間つぶしが目的であったが、めくっているうちに『十三湊を旅する』という特集が目についた。そこには次のような一節があったのである。
鎌倉時代の文永十一(1274)年と弘安四(1281)
年、日本列島は元朝による「蒙古襲来」におびやかされた。
西日本ばかりでなく北方にも元によるサハリン方面への侵攻
が続き、それに連動する形で起こる蝦夷人の反乱に幕府は悩
まされた。
─何と! 北から蒙古襲来?
『蒙古襲来とは北九州』、という常識? を持っていた私は驚いた。日本の歴史に登場する蒙古襲来は、北九州であったはずである。
──樺太や北海道にも蒙古襲来があったとは・・・、これは一体どういうこと?
そう思うと私は空(くう)を見据えた。脳裏には幼いときの情景と、子ども同士で恐怖の象徴として使われていたマモーという言葉を思い出していた。
夕方薄暗くなって、遊び疲れた子どもたちの一団が一カ所に集まると、よく年上の子が怪談? などを話して小さな子どもをおびえさせた。その上で「マモーが来るぞ!」と脅すと、小さな子どもたちは「わーっ」と言って立ち上がり、逃げ腰になって恐れたものである。丁度その頃になると、「○○ちゃん。晩餉(ばんげ)(夕飯)だよー」と母親が家の窓から顔を出したり、兄弟姉妹たちの誰かが迎えに来て一人減り二人減りして寂しくなっていったものである。そして家に戻り就寝の時間になっても兄弟などと遊んでいると、よく祖母に言われたものである。
「ほらほら、早く寝ねーどマモー来っつお。九時(口)に食われっから」
それらの幼いときの美しい記憶は、真っ赤な夕日と自分たちの体の長い影とともに思い出された。
家に戻ってから、私は1982年に出版された『三春町史 第一巻』を開いてみた。元寇に関しての記述があることを思い出したからである。確認してみると、間違いなく三〇一ページに、次の記述があった。
当時、広大なユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国蒙古
は元と国号を改め、高麗を征服したあとたびたび日本に服属
を迫ったが、執権北条時宗はこれを退けたため、元の大軍が
文永十一(1274)年と弘安四(1281)年の二度にわ
たって九州北部を襲った。幸いにも防ぎ得たが、国内上下に
与えた恐怖感は、現在でも、子どもに恐ろしいことを
『マモー』と言うように、『魔蒙』として恐れられていた言葉
である
と言われるほどに脅威であった。
マモーが蒙古であることを知ったのは、勿論この『三春町史』が出版されてからのことであるから、大分以前のことになる。三春町史を読んだ当時、幼い頃に刺した小さな疑問のトゲのうずきが取れたような気はしたが、それ以上のものにはならなかった。大体興味がなかったのである。
トランヴェールを読んだ後、私は友人知人にあのマモーという単語に記憶があるかどうかを片っ端から聞いて回った。するとマモーは郡山市安積町や日和田町、三春町などで使われているのが分かった。しかしこの単語を知っているのは、ほぼ七十歳代が限度であった。それも聞いてみると「うーん。そんなことがあったかな〜」と言うのが大部分で、話し込んでいるうちに淡い記憶が少しずつ鮮明になってくるのか、「そう言えば・・」と言う人がほとんどであった。勿論すぐに分かる人もいたが、その多くが『化けもの』、または『オッカナイモノ』『怖いもの』との認識であった。このほかにも似た表現としてマモケが郡山市三穂田町や須賀川市で使われていた。さらに聞き当たっていると、マモーとかマモケなどに類する単語は、同じ意味として東北各地や北海道渡島半島にまで広く語り継がれてきたのを知った。アモッコ,アンモー,アモコ,アンゴー,マンモー,マモッケー,マモー,モッケ,モッコ,モコ,モクヲ,モーコなどがそれである。そして岩手県一関市でもここと同じくマモーと言うのを知った。これらは、普通、十三世紀に北九州を襲った蒙古襲来の恐怖を伝えたものと説明されているが、いかに恐ろしかったとは言え、九州での恐怖が北海道にまで伝わって長い期間残ってきたということは考えにくく、やはりトランヴェールにあったように北からも蒙古襲来があったのではないかと想像させられた。もしそれが事実であれば、東北・北海道に伝わっている恐怖の象徴マモーが九州から来たのではなく地元・東北でのこととなるから、東北地方にそのような恐怖の単語が残るのはむしろ当然とも思えたからである。
これに関連して、柳田國男著『妖怪談義』に、次のような記述があった。
多くの動物の名がその鳴き声からつけられているごとく、
オバケもモーと鳴く地方では、たいていは又それに近い語を
以て呼ばれている。例えば秋田ではモコ、外南部ではアモコ、
岩手県も中央部ではモンコ、それから海岸の方に向かうと
モッコ又はモーコであるいは昔蒙古人を怖れていた時代に、
そう言い始めたのであろうという説さえある。しかし人間の
言葉はそんな学者くさい意見などには頓着なしに、土地が変
わればどしどしと変化して行っている。今日私たちの知って
いるだけでも、まず福島県の南の方ではマモウ、越後の吉田
ではモッカ、出雲崎ではモモッコ、越中の入善でもモモッコ、
加賀の金沢ではモーカ、能登にはモンモだのモウだのという
呼び方がある。
信州でも伊那は普通にモンモであるが南安曇の豊科では
モッカといい、松本市ではモモカといっている。
これを読んで知ったのは、これらの単語が東北地方に限らず、新潟、富山、石川、長野の各県にも広がっていたということである。このように広い範囲に広がっていたということは、何を意味するのであろうか。『妖怪談義』のなかにある『昔蒙古人を怖れていた時代に、そういい始めたのであろうという説さえある』という記述を、むしろ事実とすべきなのかも知れない。これら単語としての表現の差違はともかく、もし北日本への蒙古襲来が事実であるとすれば、これは一考を要する事項と思われた。
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