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カテゴリ:読書記録─小説・ノンフィクション
ブックオフ読書家ならでは(しかも100円均一限定)の欠点として、社会ルポみたいなのはどうしても古くなりすぎるんだけども今日読んだのもそうだった。
「新宿歌舞伎町 マフィアの棲む街」(吾妻博勝・文春文庫)。書かれたのが1994年。もう10年前だ。 たった10年、とはいえない世界だろう。都知事が替わったし。 4年後に書かれたあとがきに、「歌舞伎町のど真ん中にファストフード店が出来た」ということをやや驚きをもって書かれているのを見ても隔世の感がある。 登場人物のうち日本人はヤクザばかりで、いわゆるカタギは出てこない。他の登場人物はすべて外国人だ。 中国本土、台湾、コロンビア、イラン、そして韓国。 女は例外なく売春婦。 男はややバリエーションがあって、禁制品の商売や、用心棒、売春の管理などを複数かけもちしているかんじ。 さらに密入国したはいいが仕事なんかなくて、それこそ「カネになるなら何でも」というスタンスの者もいる。殺しも請け負うそうだ。本書に拠れば割と需要もありそう。 以前、亡くなった中島らも氏が「殺し屋と言う人物に会って聞いたところでは、30万でやるそうだ」みたいなことをテレビで言ってたが、本書の記述と一致する。 請け負うのは物価水準が余りにも異なる国からの密入国者だ。 不思議に思うのはそういう貧しい国からきた人たちは、彼らの国の中でもほんの一部に過ぎないわけでしょ。その他の大勢の人は何とか暮らしてゆけてるわけだ。 貧しいと言ったって皆がそうなんだから別に苦にならないんじゃないかなと思う。 想像するに、本来つつましく暮らしてた人が密入国斡旋屋みたいなのとたまたま接触してしまって、そのときにチラッと欲が出る。気がついたら斡旋屋に莫大な借金が出来ていて、なんとしても返済しなきゃいけない。 そうこうしているうちに日本の消費文化にどっぷり浸かってしまって、かつてのような生活には戻れなくなる、と。 僕は正直言って彼ら彼女らには同情しない。 最初の時点で欲を出してしまったのもそうだし、後に気づいてさっさと借金だけ返し、間違いだった何年間かを取り戻す、なんていう前向きな態度でもなさそうだから。 暴力で支配されてることはどうかと言うと、そのようなアンダーグラウンドでなくても、法律や人間関係や労働協約に支配されるわけで、そんなにみんな自由にしてるわけではないし。 ただ、やめようと思っても自分の意思ではやめられない仕組みがあるのかもしれない。だとしたらそれは問題だと思う。とはいえ、普通そうだから。簡単に仕事をやめられる人は普通いない。自分の収入以外に生活の糧があって、それがある限り「道楽で」仕事が出来る一部の人を除いては。 本書の最後に日本人のヤクザが出てくる。 彼は歌舞伎町で起こったイラン人殺害事件の実行犯だということを自白する。 このイラン人は、ある飲食店の売上を強奪する際に、店にいたホステスらを強姦したが、被害者のひとりがこのヤクザの女だった。(イスラム教徒は性犯罪なんて絶対無理だから、国を遠く離れたら「なにかのついでに」やるんだそうだ、ってのを以前聞いたことがある) ところがこの殺し、単なる報復であるようには読めない。このヤクザは強姦を心から憎んでいるようで、なにか彼の深層心理が働きかけているようにも読み取れた。(本書におけるこのくだりは、客観的な記述に終始してい、また相手が相手ということもあるのか、著者もあまり立ち入った質問はしていないため想像するほかない) 彼は告白した後、著者の手をとって 「なんかすっきりしたよ」といって目に涙を浮かべる。 本書で唯一人間味のある描写だ。 彼の殺人は、金のためではない。 あえて言うなら、それが彼の自己実現、ということなんだろうと思う。 自己実現の欲求は、実は自己の「系」に閉じることはない、と僕は思っている。 じゃあどうなるかというと、一言で言えば「人に知って欲しくなる」と思う。 有名なジョークに「女に対する最悪の拷問は何か」というのがある。 答えは「好きなだけ洋服とアクセサリーを与え、鏡のない部屋に閉じ込める」だそうだ。 このジョークで、鏡は他人、あるいは社会を意味しているんだろう。 どんなに思い切り着飾っても、いやそれだからこそ人にそれをアピールできないのは苦痛になる。 ここに僕が「私らしさ」の理想を疑う根拠がある。 共同体主義を忌避し、個人主義を標榜するタイプの人は決まって「自己実現の価値」を賛美する。反面、自己実現に資さないものをしらみつぶしに排斥あるいは駆逐しようとするのが習いだ。 その過程で、家族が標的になることが多い。 現在は更に進んで「自己」そのものを排斥しようとしているように見える。ここに言う自己とは、生まれ持った肉体、性、文化的背景、その他一般に「属性」と言われるものをさす。 現象として例を挙げるなら、ジェンダーフリー・無菌志向・体臭不安・過度の装飾など。「日本人でなく地球人」などと言う輩も入れていい。 ジェンダーフリーは、もって生まれた性を否定し、また否定させようとする。 無菌志向・体臭不安は、人間が動物であることを否定しようとする心の現われと言えないだろうか。 過度の装飾は、本来の肌や髪の色、あるいは体型を否定し、「作り変える」行為だ。 これらの現象を推進する人々は、おそらく他人とうまく調和できない。 僕が日常生活のうえでしばしば目にする「狭く硬い自我の人」(と僕がひそかに呼ぶ人たち)は、ほぼ上記の現象を推進する人にあたっている。 不愉快に対して極めて不寛容で狭量なひとたちだ。 自己実現は人に見られて完結する。 勢古浩爾はそれを「承認の欲求」と呼んだ。また、承認の欲求の最たるものは「家族の承認」であると説いた。 では「狭く硬い自我の人」は承認の欲求をどこで満たしているか。 おそらく「消費」で、である。 消費世界、とでもいう場所で、である。 これを説明するのはやや困難だが、巨万の富を稼いだマイケルジャクソンが、その肌を真っ白にしたことは象徴的だといっていい。 つまり、カネがいる。 「経済的自立」なる美名によって煽動され、女性の解放が進んだ、とされる。 しかし僕はこれについて実はずっと懐疑的だった。 果たして彼女らの行動は「自立」の名にふさわしいか? 僕には、経済的自立とやらを進めるあまり、むしろ「カネ・オシゴト・モノ」に対する依存を強めているように見える。精神的な意味では、それは自立でなく依存だ。 それらは本当に承認の欲求を満たしてくれるんだろうか。 などという問いは愚かである。問答無用で「否」である。 断言するが自己実現の欲求は自己の「系」それ自体に閉じない。 言い換えると自己実現のためには他者の存在が必須だ。 従って、自己実現に資さない他者や共同体を否定するのは絶対に間違いだ。 おそらく、「今そこにある快感」のことを「自分らしさ」とか「自己実現」と呼んでいるんだろうと思う。浅知恵、としか言いようがない。 「独裁スイッチ」を押しまくった野比のび太少年だって知っていることだ。(←知らない人は御免) 本書に登場する外国人の金の稼ぎ方は、現在の日本の「浅い自己実現至上主義者」=「狭く硬い自我の人」のそれよりもはるかに分かりやすい。自然だ。人間性を失っていない。 彼ら彼女らには体臭がある。血が流れる。病原菌がいる。暴力があり、一心不乱の睡眠がある。 最後に出てきたヤクザには、それに加えて哀愁がある。この哀愁は、かれの「家族」に対する思慕だ。 「人の命を奪った者にしかわからんことだけど、俺はイラン人に強姦された台湾人の彼女とは一緒になれねえと思ってきた。一緒に寝れば、殺したイラン人を思い出すし、子供だって作る気しねえよ。 俺に新しい命をつくる資格はねえからな。なんていうのかな、俺は近い将来、歌舞伎町を離れて、山小屋の番人でもやりてえ気分だよ。それもな、あんまり客の来ない山小屋を選んでな。 今はしゃあねえことやってしまったと思ってる。」 わたしらしさ=自己実現→自己否定衝動 ジェンダーフリー=無菌志向=共同体主義否定=浅い自己実現至上主義(狭く硬い自我) →消費=カネ依存=唯物論? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/05/13 04:16:23 AM
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