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大永元年(1521)今川氏豊が那古野城を築いた頃、川村城、小幡城に対応して築かれたらしいが、正確なことは明らかでない。 天文4年(1535)岡崎城主松平清康が織田信秀を討つためにこの城に布陣した。12月4日のことである。翌5日の未明、城内の馬が放たれて暴れだし、騒がしくなった。この物音を聞いた清康の家臣阿部大蔵定吉の子弥七郎は、かねて父に清康への逆臣ありと噂されていて、父が成敗されると思い、清康に斬りつけた。 弥七郎はその場で上村新六郎に斬り伏せられたが、清康も落命した。清康はこの時、25歳、世に守山崩れという事件である。弘治元年(1555)城主織田信光は信長と共に清洲城の織田彦五郎信友を襲い、信長が清洲城に入ると、信光もこれに従い、信秀の弟孫十郎信次が入城した。 信次は家臣が誤って信長の弟秀孝を殺したことに責任を感じて出奔、替わって城主となった信長の弟信時も家臣に殺害されるという悲劇が続いた。(日本城郭事典) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.07.03 05:00:24
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