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2012.09.05
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茂木城
城主の茂木氏は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の有力御家人となった八田知家の3男知基にはじまる。知基は、父知家が頼朝から拝領した下野茂木郡(茂木町)の地頭職を譲り受けて本拠地とし、茂木氏を名のった。茂木城の築城は、知基が茂木郡を領した鎌倉時代の建久年間(1190~99)と伝えられるが、実際には南北朝時代14世紀前半ごろの築城と考えられる。

類例から見て、それまでが茂木城の山麓、もしくは近在に居館を構えていた可能性が高い。1説には、「館」の地名がのこる茂木城の北東台地上(荒橿神社付近)にもともとの居館があったとする見方もある。ともかく、茂木城は茂木氏入部以来の居城だったかどうかはなお検討の余地があろう。

初代知基以降、茂木氏は2代知宣、3代知盛、4代知氏、5代知貞と代を重ね、知貞の時期に南北朝の内乱を迎えた。内乱に当たって 知貞は、足利尊氏に従い、北朝方として各地を転戦している。とくに知貞・知政父子が南朝方の北畠顕家軍と宇都宮周辺で戦っていた建武3年(1336)11月には、南朝勢によって茂木城はいったん落城しており、すでにこの時期には茂木城が築城されていたことがわかる。

たぶん、戦乱の激化にともない、茂木城が拠るべき新たな要害として茂木城は築城されたと考えられる。南朝方の軍勢に占領された茂木城だが、留守を守っていた一族。家臣らの反撃によってまもなく南朝勢は退散し、その後城内には茂木氏の一族・家臣だけでなく近隣の軍勢も立てこもっている。翌建武4年(1337)2月には、奥州から参陣した北朝方の軍勢もやはり茂木城に隣接する荒橿神社付近に陣を構えて、攻め寄せた南朝勢を撃退している。

すでに茂木城は、北関東地方における北朝方の重要拠点となっていた。茂木氏は、知貞以後も北朝方として室町幕府。鎌倉府にしたがい、領地を守った。なかでも茂木氏は、鎌倉公方足利氏との主従関係を強め、歴代公方からは実名の「基」や「満」の一字を拝領して、それぞれ基知、満知と名のっている。しかし、幕府と鎌倉府の対立が深刻化すると茂木氏の立場は微妙なものとなっていった。

公方持氏が将軍義教に背いて討たれた永享の乱(1438~39)では、茂木氏は持氏にしたがったために一時、領地を没収され、茂木荘は常陸の佐竹氏らに与えられている。ただし、その後、持氏の遺児安王丸らが与党と下総結城城に籠城した結城合戦では、茂木氏は結城城を攻める幕府軍に従軍しているので、幕府方となっていたことがわかる。

また、宝徳元年(1449)には、持氏の子成氏が鎌倉公方に就任し、鎌倉府が再興されており、このころまでに茂木氏も領地を回復して いたとみられる。公方成氏と関東管領上杉氏との分裂にはじまる享徳の乱(1454~82)では、茂木氏は当初、上杉氏・幕府方となり、成氏に敵対している。

このため、康正2年(1456)正月ごろから成氏方の軍勢による茂木城攻めが本格化し、3月には城をめぐって激戦が繰り広げられた。城攻めにあたる那須持資に宛てた成氏の書状には、3月3日の合戦で持資の親類・家臣数名が負傷したことや城の近辺に陣取って毎日矢戦が行われていることなどが具体的に記されている。昼夜におよぶ戦闘がつづいていた。

しかし、それでも城を攻め落すことはできず、かえって4月になると持資とともに従軍していた宇都宮氏の軍勢が、成氏の許しもえずに勝手に撤退してしまう始末だった。持資らは力攻めをあきらめ、兵粮攻めによって同年8月にようやく茂木氏を降伏させることに成功した。茂木氏は、半年以上にわたす籠城戦を戦い抜いていたのである。

享徳の乱以降、東国が戦国時代を迎えるが、この間に茂木氏は荘内の一円支配を実現するとともに、周辺の領主とも新たな関係を築いた。まず隣国の佐竹氏と同盟関係を結び、最終的に佐竹氏に服属している。また、一族である常陸の小田氏との基本的に友好関係を保った。領地を接する那須一族の千本氏などとも緊密な関係を維持し、とくに千本氏とは婚姻関係にあった。

いっぽう、結城氏や宇都宮氏配下の益子氏などとは境界争いなどが原因でしばしば関係が緊張し、両氏は茂木領への侵攻を企てて、茂木領境で何度か軍事衝突を起こしている。茂木氏は、佐竹氏配下の武将として戦国時代を生き抜き戦国末期の天正年間(1573~92)には17代治良が当主となっていた。

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めでは、治良は佐竹当主の義宣に従って秀吉への謁見を果たした。こののち佐竹氏は、茂木領を含めた常陸・下野両国内の領地21万貫文あまりを秀吉から安堵されている。結局、茂木氏は茂木荘入部以来、約400年間にわたって領地を維持しつづけたことになる。(関東の名城を歩く 北関東編)





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最終更新日  2012.09.05 04:33:03
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