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![]() 東部野田戦の増尾駅から東の方へ細い道をたどって行くと妙蓮寺付近で車道に出る。そこから北上し、土小の脇の道へ左折し、セブンイレブン付近で、車道に出、横断する水路に向かって少し下り、登りにかかると前方に山林の丘陵が見え、そこが増尾城址総合公園だ。 公園に近ずくと崖の部分の木が伐採されていて、土がむき出しになっている。何か建物ができるのであろうか。駐車場の脇の階段を登るとすぐに城域に入り、正面には櫓台があり右から空堀を通ってII郭の虎口を登る。II郭はかなり広い平面で周囲は、まだ高さの残っている土塁で囲まれている。 案内板も整備されている。I郭へは東側の虎口から入る。ここはII郭より狭く長方形であり、先端部から下へ下りる道があり、I郭、II郭の周囲をぐるりと空堀がめぐっており、ある部分はかなりの深さである。この空堀の右側は更に公園の低い谷戸となっている。公園は城域以外に整備された部分がある様だ。この城跡は以前にも来たことがあり、雰囲気を思い出すことができた。(2016/03/13訪問) 城主は、高城氏家臣の平川若狭守と伝えられてきた。「高城氏由来書」によれば、永禄期の高城胤吉。胤辰の時代に「士大将平川若狭守」として登場し、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの折には安蒜・吉野氏らとともに小金城に籠城したとある。この平川若狭守の本拠地が増尾城であったとする所伝は、増尾地区における平川姓の旧家と相俟って通説化されてきたが、実際の所はこれを裏付ける確実な証拠史料なないのである。 平川氏の出自・素性として、高城氏のもとに送り込まれた小田原北条氏の家臣平川氏と云う説や千葉氏の家臣の平河一族との説がある。天正18年(159)、小金城は浅野長吉(長政)の軍勢に攻囲され、一戦も及ばずに明け渡されたが、このあと籠城していた平河若狭守は、同じく高城氏家臣であった南相馬郡鷲谷の染谷二郎右衛門尉のもとに寄せた。 (東葛の中世城郭(千野原靖方)) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.05.25 07:16:45
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