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2017.01.27
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初沢城を訪問した際、戦国時代初期の長井氏の本拠が片倉城だったことを知り、JR横浜線の片倉駅からすぐの城址公園に来た。以前には、片倉城址公園の入口付近に狭い駐車場があっただけだったが、今は立派な広くなった駐車場も整備されていた。公園管理棟のそばにある池の前には、望遠レンズを付けたカメラを手に持った人が三人ほどおられ、池の魚を取る鳥を狙っているらしかったが、池は薄く氷が張っていた。その公園の平坦部からすぐに山道が城址に通じている。

今は、公園を管理する人がいて、大きな樹木の下草は綺麗に刈り取らていて、枯葉で覆われた山の地形がよく見通せる。住吉神社の脇を抜けて空堀状の道を登ると、2の丸郭址に出るが、その手前にはかなり大きな空堀があり、2の丸郭と1の郭の間には、橋まで復元されている。1の丸郭はそれほど広くないが、2の丸郭は広い芝生の平坦地である。東側に明るく広がる場所からは、ほぼ平坦な畑と遠くの山々が望める。その畑のとの間につつじが手入れされ植えられているが、ここも空堀址であろう。(2017/01/19訪問)

 この城は、幅150mほどの台地東端が幅25mほどの大規模は深い空堀で切り離され、その内部の東西2つの郭を中心とする遺構群で構成されている。東端の台地先端が主郭で、西側の郭とは幅20mの空堀で区切っている。主郭は、東西、南北とも約50m、第2の郭は、東西約90m、南北約120mと4倍の広さをもっている。これらの郭は、当初は土塁と空堀で囲まれていたと思われる。

現在、はよくのこされているが、土塁はかなり崩れた所が多い。空堀も住吉神社境内の南側は痕跡を残していない。このことは、史料の記述から住吉神社を今の位置に移した時に大幅に造成されて、このあたりの遺構は、江戸時代に大きく改変されていたと思われる。また、戦前に社殿を建て替えるさいに、空堀を埋めて 整地された可能性もある。主郭の西端には、第2に張り出した櫓台があるが、虎口や橋の痕跡は残っていない。

第2郭に西端にも同様に櫓台が設けられており、北側に虎口がある。虎口は、両側に横矢が張りでていて堅固である。片倉城は、台地側を除くと急斜面で、今でも湧水が湧き出すような沼沢地で、川を制御することによって、防御はしっかりしている。攻めるとすれば、台地側である。入口は、南側である。遺構はすでに破壊されているが、弧状の堀切の南端から城内に入る。掘で囲まれて孤立した小高い櫓台がある。

ここを抜けて東へ進むと、第2の郭へ入る土橋がある。土橋を渡ると虎口である。この地域は、横山荘と呼ばれた武蔵七党横山氏の領袖横山氏の所領であった。建歴3年(1213)の和田義盛の乱に与して横山氏が滅亡した後、大江広元の所領となった。その後、大江広元から出羽国長井荘の地頭職を譲られた次男大江時広が、長井姓を名乗り、横山荘を領有することになったという。康応2年(1390)庄内の山田に広園寺を開基したのは、長井道広である。道広は法名であるが、大江氏の居館は広園寺の大門先にあったという。
 それは、このあたりに馬立場があり、馬繋ぎの跡だといわれているからだという。一方、大江氏が片倉に居城したころ、時々広園寺に参詣し、大門先に馬立場があったといわれている。また、大江師親は毛利氏の祖であり、片倉在城は不審だという当を得た見解もある。いずれにしろ、片倉城が長井氏によって築かれたとする点は、今のところ異論はなさそうである。この城は、占地方法や縄張が極めて類似する調布市深大寺城と近い時期に築かれたものとする見解がある。

 2つの城は、文明年間にはともに扇谷上杉方の城であった。16世紀初頭、扇谷上杉方の長井氏は衰亡したとみられ、永正7年(1510)上杉顕定が敗死したころ、片倉城もいったん廃城したと考えられている。その後、この地域は大石氏の支配下に入ったと思われるが、16世紀の中頃には北条氏の支配下となり、改修されたと考えられている。北条氏照の滝山領における出城の1つとして機能していたと考えられる。
(関東の関東の名城を歩く(南関東編))





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最終更新日  2017.01.27 06:28:30
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