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2019.12.06
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分倍河原駅を見下ろす位置、多摩川沿岸の低い土地を見下ろす位置にある高安寺城。高安寺の駅前に新田義貞の銅像があるようにこの付近は、鎌倉時代、室町時代に多摩川の渡河点近くということで、何度も合戦が行われた所です。また、江戸時代の甲州街道は高安寺の前を通っています。大相撲の大関に「高安(たかやす)」がいますが、テレビで放送を見るたびにこの城址の事を思い出します。呼び名はともかく、高安とは、面白い組み合わせですね。
 <地図>
 JR南部線と京王線の分倍河原駅から、北側に坂道を登ると右手の丘陵上に高安寺がある。高安寺の南側は、多摩川の氾濫原に面して、かなりの崖になっており、北側は甲州街道に面している。東には大國魂神社境内にある国衙跡、東南方向に多摩川を渡る関戸がるり、昔から交通の要衝の場所だった。高安寺本堂背後の林地はやや広い平地になっており、西と南は斜面で、何者かの館があったのであろう。
 東に国衛をひかえ、武蔵の中心地に位置していたことから、鎌倉・室町時代を通じて、しばしば戦乱にまきこまれており、往時を伝えるものをすべて失ってしまったが、東・西・南の三方には堀の跡が残り、寺が城砦化されていたことを物語っている。
 <遺構>
 高安寺はもと市川山見性寺と号し、天慶3年(940)、俵藤太秀郷が武蔵守として下ってきた時の館址に秀郷が開基となって建立したものといわれるが、藤原秀郷が武蔵守に任ぜられた事実はなく、伝説であろう。のちに足利尊氏が中興となって、見性寺をあらため「竜門山等持院高安護国禅寺」と号したと寺伝にある。寺号は尊氏の法号である等持院仁山妙義からつけたといわれ、足利氏ゆかりの寺となった。また、高安寺は武蔵国安国寺と目されているが、その明証はない。

往時は塔頭10院、末寺75寺を数える大伽藍で、その寺域は四里四方に及んだという。高安寺は戦略的拠点にあったため、鎌倉府の出城的存在となり、寺の周囲に土塁や空堀を巡らし、砦と化しでいたものと思われる。戦国期になっても高安寺はその位置的重要性から公方・上杉氏・後北条氏など、関東における中心勢力の利用するところとなった。
 <歴史>
 正慶2年(元弘3、1333)、新田義貞は分倍河原で鎌倉北条勢と戦い、これを打ち破った。この時、新田義貞は高安寺を拠点にしたという。室町時代になると、高安寺は鎌倉公方足利氏との結びつきを深くし、鎌倉公方はその敵を討つためしばしば出陣したが、常に高安寺に本陣を置いている。二代鎌倉公方氏満は応安元年(正平23,1368)の河越合戦に、永徳元年(弘和元、1331)の小山義政征伐に、三代満兼は応永6年(1339)大内義弘に呼応して幕府に飯旗を翻して高安寺に陣を進めている。

四代足利持氏は応永30年、常陸小栗氏・下野宇都官氏を討つため高安寺に出陣したが、幕府と対立したため、翌31年に同寺を焼いて鎌倉へ帰っている。永享10年(1438)、足利持氏は関東管領上杉憲実を討たんと高安寺に出陣したが、上杉憲実支援の幕府軍に敗れて自滅した。
 <関連武将>足利持氏</関連武将>
 <出典>日本城郭大系</出典>





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最終更新日  2019.12.06 05:35:53
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