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2021.05.08
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今は里見公園となっている岡本城は富浦旧港の近く内房なぎさライン(R127)から山側にそれた道を少し進んだところに階段があって、そこを登って行くと岡本城址に達する。全盛期には下総まで勢力を伸した里見氏の居城としては、小規模な城である。城址からは東京湾を望めることから水軍の基地としての役割もあったとのだろうか。
<地図>
浦賀水道に注ぐ岡本川によって小規模な沖積平野の北端に位置し、東から西に張り出す標高60m程の丘陵先端部に占地する。城跡へはJR富浦駅からだと、国道127号線を北上し、富浦小学校を過ぎ旧道を右に入り、トンネル手前の里見公園の看板がある階段を登る。登り切ったところが里見公園で当城跡のI郭である。戦国大名里見氏最後の居城であったことが、当城の第一の性格といえる。主郭直下の二つの区画を合わせると一町X半町規模の居館が想定され、さらに「古宿」・「新宿」・「田宿」地名および寺社の配置から城下町が形成されていた可能性があることから、戦国大名領国の政治・経済の中枢としての機能を備えていた。しかし、前段階までの里見宗家の居城であった佐貫城や久留里城に比べると規模的に劣ることは、戦国末期段階の里見宗家権力の求心性が前段階に比べ後退していることが読み取れる。第二の性格としては、当城が直接海に面した海城であることである。里見水軍の根拠地であるとともに、海上交通の結節点である湊を保持した経済活動を重視した城郭ととたえることが可能である。ただ、この時期内房地区の湊機能を造海(百首)城下の湊に集中させる政策が取られていることを考えると、やはり里見氏領国内での岡本城の求心性の弱さが指摘できる。
<遺構>
東西600m・南北300mの規模を有するが、他の里見氏系居城や有力支城と比べても決して大規模な城郭とはいえない。構造は大別して、(1)丘陵頂部の郭群と周囲の帯・腰曲輪群、(2)主郭(I郭)南側裾部の居館地区、(3)主郭の西側下で、西は海に面し、北と南を支尾根に画された字「用害」地名の地区、の三地区に分けられる。(1)の地区は三ヵ所の郭(I~III)からなるI郭が主郭で現在里見公園となっている。
I郭はさらにIa,Ibとに二分されるが、Iaは馬の背状の細長い地形でせいぜい見張台的な性格の郭である。Ib郭は後述するように、発掘調査によって建物跡が検出されていることから、天守曲輪的な性格であったと考えられる。II郭は梅王丸が幽閉されていた伝承をもつ郭で、鉄砲導入後に掘られた大規模な堀切によってI郭およびIII郭と区画されているが、頂部の平坦面は自然地形が多分に残され大規模な改変は受けていない。逆にIII郭は大規模に人為的な改変を受けて、広い平坦面を有している。この郭での特色として、北側縁辺部に石積技法の石塁Aが認められることである。里見氏系城郭には石積遺構がよく認められるが、その中で岡本城跡の石塁は、遺存度といい規模といい出色である。またIII郭北東端から北に延びる尾根部には、地元で「枡ヶ池」と呼ばれる両端を土橋状に削り残した水堀Bの存在が特筆される。平時には貯水施設として使用され、戦時には防御施設として機能した。丘陵上にある水堀遺構としては県内では唯一で、全国的にみても極めて珍しい。I~III郭の周囲には、それぞれ帯・腰曲輪群が取り付くが、なかでのI郭の北側(C)と南西側の帯・腰曲輪(D)はI郭よりも大きい。このことは、当城の丘陵上の使われ方を理解する上で大規模な帯・腰曲輪の性格を単に防御的な施設だけでとらえないで考える必要がある。I郭では昭和60年(1985)に県教育委員会によって小規模ながら学術調査が実施された。発掘の結果金谷城跡の発掘で検出されたのと同様な内堀様の柱穴構造の建物跡が検出され、高層の他建物が建っていたことが想定されている。(2)の居館地区は、現在東京学芸大付属小学校の寮が建っているところで、I~II郭間の堀切の南側直下に位置し前面の沖積面より3~4m高位の平坦面である。50m四方と60mx50mの二つの方形プランからなる。規格性のある人為的に造成された平坦面や主郭の直下に位置することから、さらに規模から考えて、ここに里見義頼・義康の居館があった可能性が極めて高いといえる。字「用害」地区は前面が海に接していることから、湊の機能をもった空間で水軍の根拠地であるとともに、海運関連の施設の存在も想定される。
<歴史>
戦国時代末期の里見家当主の里見義頼・義康二代の居城であった。天文6年(1578)に里見義弘が没すると、その名跡を巡って安房を基盤とする義頼派と上総を基盤とする梅王丸派との間に内乱が起こったが、義頼派が勝利してその結果岡本城が里見宗家の居城となった。しかし、天正18年(1590)に里見氏は豊臣秀吉によって上総の所領を没収され、安房一国のみの領有となったため、新たに安房中央部に位置する館山城に居城を移し、その結果岡本城は里見宗家の居城としても性格はなくなった。これにより、当城は居城をたびたび移転させた里見氏にとって戦国最後の居城となった。
<関連武将>里見義頼</関連武将>
<出典>房総の城郭、日本城郭大系</出典>





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最終更新日  2021.05.08 05:10:17
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