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2021.07.31
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二回目に訪れたときは、市街地から田園地帯に降りていって、右手の丘が結城城の道路を走っていると、公園の駐車場ががあった。城址の台地には駐車場がなかったので、車を停める場所を探していた所で、ラッキー! 比較的新しい。ここは、田川が蛇行する低い土地で、結城合戦の頃は低湿地であったのであろう。駐車場から坂道を登るとすぐに結城神社や記念碑の建つ平地のの公園になる。この場所はそれほど広くなく端に立つと田川方向はかなり低いことが分る。公園の入口付近は工場や住宅地になっており、その部分も城域だったようで、大きな空堀が巡らしてある。住宅などなく、城の遺構として保存されていたら、結城城の要害性を実感できたと思われる。
<地図>
低湿地に囲まれた要害の地;結城市の市街地の北東に位置する。城の北東南の三方は、低地帯に取り囲まれており、その外側を遠巻きにするように蛇行した田川が南流し、外堀の役割を果たしている。城の西側は、市街地のある台地につながるくびれた部分に堀を掘り、城のある台地を切り離している。その堀の中には、近世以前に起源をもつと見られる吉田用水が流れているが、この用水の掘削が築城と連動していたかどうかは不明である。城のある台地は、南側か比高3~4m、北側が比高6~7mで、北に行くほど高くなっている。台地先端部を切り離したところだけに、全体に居住空間として良好な条件を有しており、城跡には少ながらぬ住宅地が存在する。
<遺構>
この時期の結城城についてみると、15世紀末には城内の区画として西館が確認され、弘治2年(1556)の「結城氏新法度」には実城・館・中城の名が見える(一般に実城は本丸を、中城は二の丸を指す言葉である)。このうち西館は現在の結城城跡にある小字と一致し、館は字城跡、中城は字本町にそれぞれ比定される。このほか来館という小字もある。その配置は、北から館、その西側が西館、館の南側が中城、その南側が東館であり、結城城の縄張とも対応する。すなわち、一番北には南北の空堀で画された館・西館を配置し、その南に掘られた東西の空堀が館。西館と中城とを区画しており、さらに中城の南側の空堀によって東館が分離されている。このうち最大の面積を有する館は、南北約250m、東西約200mで、空堀はいずれも上幅7~8mはある。館・中城を区切る空堀と館・西館を区切る空堀には土橋が確認されるが、後者は土橋から北側の空堀が浄水場の建設に伴って埋め立てられ、不明確になっている。また、館の北に1ヵ所、東側に2カ所、東館の東側に比較的古い形をとどめた虎口がのこっている。結城城の事実上の主郭は、最大規模を誇る館であった可能性が高いが、それとは別にこの城を象徴する郭があった。現在では西館の北側にその残骸をのこすのみであるが、江戸期の結城城絵図や明治前期の迅速測図でも確認できるように、西館の北東から館の北を覆う形で土塁囲みの一段高い郭があり、十二天社があったことにちなんで十二天郭と呼ばれ、城内で最も神聖な空間とされていた。「結城氏新法度」に見える実城は、この郭か、もしくはこれと一体的関係にある館とを合わせたものであろう。十二天郭に結城氏の居住空間があった否かは不明であるが、最大面積を誇る館は、結城氏の実質的な生活の場、領域支配の政庁となっていた可能性が高い。一五世紀末の西館には多賀谷和泉守が住んでおり、さらに「結城氏新法度」によると、館・中城にも家臣団の屋敷が建ち並び、その中には屋敷地に従者を置いて商売を行なうものも存在した。結城城は、軍事施設であると同時に、結城氏とその家臣団が住む共同住宅地でもあったのである。
<歴史>
結城氏の動向と結城築城;結城氏は小山政光の三男朝光にはじまる。12世紀末、朝光は信田義広の乱の戦功によって結城郡を獲得し、ここを本領としたことから結城氏を名乗るようになり、鎌倉幕府評定衆に列せられるなど有力な御家人に成長した。二代朝広22代広綱も結城氏の発展に努めたが、得宗の支配が強まる四代時広・五代貞広・六代朝祐の時代になると、御家人の立場を維持したまま得宗の家臣的な存在となり、勢力を後退させる。後醍醐天皇や足利尊氏による鎌倉幕府の討伐が開始されると、朝祐はいち早く尊氏にしたがって勢力の回復を目指すが、南北朝動乱の開始とともに、一貫して足利方に属して各地を転戦し、朝祐とその子直朝が相次いで戦死、結城氏の退勢は一段と進んだ。直朝の弟直光も足利方に属し、尊氏の信頼を得て次第に結城氏の勢力を回復していくが、常陸関城とその周辺で南朝・足利両軍の攻防戦が展開されているとき、結城氏一族が結城郡に城郭を築いていると記す史料がある。これが結城城築城を伝える記事であるとすれば、結城城の成立は14世紀半ば近い前半まで確実に遡ることになる。しかし、この頃の結城氏の本拠は、結城城ではなかった可能性が高い。まだ考古学的な物証を得られてはいないが、結城市街地の南南西約4キロにある「城の内」と呼ばれる館跡が、朝光以来の居館であった可能性が高い。当初の結城城は、関城・大宝城の南朝方に対抗する結城氏の 軍事的拠点として築城されたものであろう。結城氏の隆盛と結城城;14世紀後半以降の結城氏は、鎌倉公方につながって、直光が安房守護となり、その嫡子基光は小山義政の乱・小田孝朝の乱で戦果を挙げ、下野守護に補任される一方、次男泰朝に断絶した小山氏の名跡を継がせ、さらには常陸に小田氏の旧領の一部を獲得するなど、下総北部・常陸西部・下野南部から武蔵にまたがる一大勢力圏を築き上げた。とりわけ基光は14世紀後期~15世紀前期の40年余、下野守護として君臨しつつ、一族の総帥として結城・小山・山川氏らを束ねつづけた。基光の権勢は、鎌倉公方によって保護・育成された側面が少なからずあったため、公方と幕府将軍の対立が激化すると、将軍に通じる関東管領山内上杉氏と結城氏との対立関係も顕著になった。この時期の結城氏の本拠については、直光の時代以降、結城城下に結城氏ゆかりの寺社が建立されることから見て、14世紀後期(1360~70年代)頃、結城城が結城氏の居城として定着していったと考えて大過ないであろう。そして、結城氏の名を一躍全国に知らしめた結城合戦が、実際にこの結城城を舞台として戦われた。当時の城主は基光の孫氏朝であり、彼は祖父基光の影響下に成長し、若くして死去した満広の跡を嗣いで結城一族の総帥となった。そして、永享12年(1440)、永享の乱で自殺した鎌倉公方足利持氏の支持勢力の要請により、持氏遺児を擁立して挙兵し、幕府・上杉方の大軍を相手に一年余にわたる攻防戦を展開するが、自立を目指した小山満泰の離反に加え、戦局が悪化する中で山川氏義にも離反される。窮地に立った氏朝は、嘉吉元年(1441)4月、城外へ出撃して戦死し、ほどなく結城城は落城したのであった。結城合戦からほど近い15世紀後半成立の「結城戦場記」では、結城城は構えが厳しい上に大堀を掘って塀を造り、櫓をあげていたと記し、そして攻防戦に参加した仙波常陸介が幕府方の伊勢氏に送った披露状では、①結城城は大城である、②しかし城壁を取り除いて掘りを埋めれば攻められる、③多勢の幕府軍が一挙に攻めれば「外城」は攻略できる、という幕府方武将たちの証言を書き留めている。これらの記載から、当時の結城城が要害堅固な大城であったことが確認され、細かな城の構造を別にするなら、低湿地に取り囲まれた台地上にのこる現在の結城城跡とほぼ同じであったことが明らかとなる。当時の結城城の構造は不明であるが、②の「外城」に着目すると、4世紀後期の小山義政の乱の舞台となった鷲城などが、内城・外城という二郭構造であったことから、おそらくこの城も、内城・外城から成っていたのではなかろうか。戦国結城氏の盛衰と結城城;結城氏は結城合戦で断絶するが、持氏の遺児成氏が鎌倉公方を再興すると、氏朝末子成朝も結城氏を再興した。しかし、まもなく公方方と上杉・幕府方の抗争が再燃し、その間に成朝は不慮の死を遂げ、その跡を嗣いた氏広も若くして死去し、幼年の当主政朝のもとで結城氏の勢力は後退した。明応8年(1499)、成人した政朝は、専権を振るう重臣の多賀谷祥英(朝経)を打倒し、結城氏の支配体制を立て直し、小山氏の養子とした高朝との連合を固め、共同として宇都宮・小田氏に対抗し、勢力を伸ばした。政朝の次代政勝も、小山氏との連合を強化しつつ、一族の山川氏や多賀谷氏、水谷氏を傘下にしたがえ、小田氏を破って常陸に勢力を伸ばすが、古河公方との関係によって小田原北条氏の影響下に属し、その地位の安定化を図った。政勝の養嗣子晴朝は、当初、北条氏に属したが、永禄3年(1560)に始まる上杉謙信の関東出陣を契機として、困難な局面に立だされたため、結城氏存続のために、その時々の戦況に応じて北条方と上杉方との間を揺れ動いた。そして、越後上杉氏が関東から後退すると、佐竹・宇都宮氏との連合を拠として北条氏に対抗する。結城秀康の入嗣と結城城;天正18年(1590)、結城晴朝は養子朝勝に変えて、豊臣秀吉の養子羽柴秀康(徳川家康次男)を新たな養嗣子として迎え、中久喜城へ隠居した。秀康は結城入部とともに結城領の変革を開始し、城と城下町の再整備をすすめた。城下町については、戦国期の宿(大宿・西ノ宮・玉岡・三橋・大谷瀬・人手のうち、城の西側にあった宿・西宮と宿の南に造成した浦町を町人町の中心として、宿・浦町の東側から城に通じる道路上に新たに殿町を造って家臣団屋敷地とした。殿町通りは中城と東館の間につなげられ、戦国期の玉岡や西ノ宮から西館に入る道路に代わって大手通りとされた。結城城については、基本的には戦国期の縄張りを継承しつつも、増加した家臣団を収容するため、西館・中城・東館を中心に大規模な屋敷割りを行なった形跡がある。慶長7年(1602)、秀康の越前転封に伴って結城城はいったん廃城になるが、元禄13年(1700)、水野氏の結城藩が成立し、結城城が再興されたとき、使用されたのは館・中城のみであった。それにも関わらず、西館・東館には、それとは異なる規格の道路割りの跡が明瞭に読みとれるからである。秀康の時代の結城城には、戦国期以上に多くの家臣団が居住していたことは間違いないであろう。
<関連武将>結城氏朝、結城成朝、結城政朝</関連武将>
<出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>





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最終更新日  2021.07.31 05:28:05
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