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翔(はばた)く女性を応援する会社を目指します

翔(はばた)く女性を応援する会社を目指します

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2023.04.03
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茨城県にきたのは、必然???
でしょうか>


故会長(羽富正三)の当時のことばより

いろいろなことがあって、苦労もやまほどして、
ここまで育てた会社です。

あの戦争から、かえってきて始めた行商から出発して、





昭和26年7月に旅館の一画の倉庫のような場所に、
初めての店をかまえて、創業しました。
名前は、扇屋旅館さんから、頂き
「扇屋洋品店」と名付けました。




昭和35年4月に
宝ストアーを7人の株主を募って
オープンさせました。
初年度から、赤字。
スーパーマケットにまで手を広げて赤字。
当時の金額で、1,000万円の赤字。





縮小などいう失敗も味わいました。





そんな長い長い試行錯誤をへて、やっとたどり着いた、





この婦人服販売という事業です。

だから私は、わたしの代でこの会社を終わってしまうのを、

どうしても善しとすることはできませんでした。

そもそも、昭和62年10月に
ある大手ファッションアパレル・メーカーから



彼を引き抜いたのは、



後継者を育てたいという思いがあったからです。 


当時28歳。社長の私をはじめ他の役員側から見れば、





あの頃の彼は、子供のように若く感じられた
もので


その当時の経営陣はほとんどが





50歳~60歳という組織だったのだから、
当然かもしれません。
私たちの世代には、もう終りがちかづいている。

その危機感が、彼にかけてみようと
私達の心を決めさせたのです。







それは、このままでは経営陣の老齢化に
ともなって衰退していくことは、







目に見えていました。





ならばいっそ、彼の思うままに
やらせてみることからはじめよう。



彼にとっては大きな重圧だったのでしょうが、

私達も出来る限りのお膳立てを整えて、

助けて
きたつもりです。

そして彼が入社して3ヶ月。驚いたことに売上げは、





対前年比の1.5倍を記録していました。

彼がしたこと事は、社員のためのマニュアルを
整備するという、







今思えば、当たり前のことでした。









お客様の挨拶の仕方、電話の取り方、そんな目にみえるところから、

地味に改善をおこなったのです。





私達には、少なからぬショックでした。





そんな基本的なところに改善の余地を残したまま、
これまでやってきていたとは。

また、若い世代に仕事をまかせることが、これほどが、



これほどの結果を実らせるとは。




ところが、1年が、ふたたび業績の伸びは
止まることになります。

あの当時ほど、彼があせっていた時期かもしれません。

それは、大手のメーカーから移ってきたプライド。
自分にかかる期待の大きさ。

なにが何でも売上げを伸ばさなければならない。





・・・と彼が思ったのも無理はありません。

しかしもちろん、私達、経営者は、
彼を責めるつもりは、少しもありませんでした。

あの頃の彼(としあき)にこんなことを言ったのを
覚えています。
  
「きみは今までのノウハウをすべて出し尽くして
 くれている。

なら、それでいいじゃないか。
出し尽くしてゼロになったら、

そこからまた、
一緒にはじめようじゃないか」

その当時の彼(としあき)が
言います。

「この会社のために、やってみようと、
 あの時本当にそう思った」と

私の娘との結婚が決まった日の不思議な気持ちは、
やはり忘れません。


私の娘は、京子。



この私が、あせってムコの選び方を間違いました。

あせることが、娘の人生を狂わしてしまいました。





実は、娘は、わたしの長男(本家)の娘でした。

そうです、わたし達夫婦には、
実の子には、恵まれなかったのです。

名前は、京子。

幼い時に、本家より、養女として、迎えました。

無理やり結婚そして、離婚。




申し訳ないことをしたと反省していました。


どこへ、行くにしても
「いい婿さんは、いないですか?」
と聞き歩いていました。



実は、今だから、言えますが、一目見て
「この男だ。」と確信しました。







彼が、入社するまで、約1年半かかりました。


昭和60年秋から、昭和62年春ごろまで。


面接、面談は、20回以上行いました。

そして、縁があり、入社しました。
そして、娘に会わせました。

後継者がいないこのわたしに、

こんなかたちでムスコができるとは。

妻とその晩は、

大泣きしたのを今でも覚えています。

都史彰(としあき)は、名古屋生まれ。

わたしも70歳を過ぎ、



他の経営者も相次いで引退していくでしょう。



このせがれには、まだ一緒に仕事をする

(悩んだり、喜んだりする)相棒がいないのです。



同族会社にこだわる気持ちは、まったくないようです。

これまでのような経営手法は、
わたしとともに姿を消すでしょう。

終戦直後から、リヤカーを引きながら、グイグイひっぱってきたやり方から、

従業員の立場から考える婿のせがれと一緒

になって次の世代をつくるあなたを採用すること。





・・・これが。私の最後の、最後のおおきな、おおきな仕事です。

ありがとうございました。

ロコレディ 故会長 羽富正三



平成7年の会長のことばを私が、文章にしました。

しかしながら、
平成18年から22年夏まで

まだらボケが、始まり
苦痛の4年間でした。

辛かった。
辛かった。

離婚しろ。

どんどん仕入れを増やして、
モノを沢山お店に入れろ!

カラーで、チラシを作成して
折込みチラシを40,000枚入れろ!

ーと頭の中は、昭和30年から40年の
手法を押し付けてきました。

何度も,何度も

色々な人に相談しました。

悩みました。

でも、でも

平成23年2月7日に
亡くなる前に、
としあき、後は頼むぞ!
ーと涙ぐんで、手を握り合いました。
2月11日に.天国へ。

色々ありましたが、
創業者
故羽富 正三に
感謝しております。
婿養子になって、
本当に良かった。

ありがとうこざいます。

ありがとうこざいます。

合掌
ロコレディ
婿養子
羽富 都史彰

#婿養子
#ロコレディ

#羽富 都史彰

#羽富 正三
#アパレル







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最終更新日  2023.04.03 11:23:05
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